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バレンボイムの偉大な指揮/アイーダの爲の《アイーダ》(3)(2009年09月17日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年09月17日より)

ミラノ・スカラ座來日公演(平成21年9月11日於NHKホール)/ヴェルディ作曲:歌劇《アイーダ》

 (承前)そもそも、アイーダの愛を潰さうとするアムネリスにせよ、エチオピアを粉碎するエジプト王にせよ、最後にラダメスを處刑する神官達にせよ、彼らは、このオペラの主役二人の心の眞實を蹂躙する強壓的な權力である。權力に醉ひ、それに乘じて、人間的な眞實を壓殺する側の陶醉の音樂と、アイーダらの悲戀の音樂とを、ヴェルディは、それぞれどのやうな重みで書いたか。オペラの音樂的效果に就て、徹底的な職人であつたヴェルディに、その點に關する觀念的な逡巡があつたとは思へないが、指揮者にとつて、この二つの領域の均衡點をどこに見出すかは、易しい問題ではないだらう。

 《トリスタン》は、徹底的な夜の讚歌で、晝は、一幕の終りや、二幕の終りに、殆ど豫感のやうに、垣間見られるに過ぎない。晝の代表者であるマルケ王は、二人を許しに驅付けたが手後れで、悲嘆の淵に沈む。愛し、信じた2人を受入れようと思つた時に、マルケは、逆に、全てを失ふ。夜の世界の榮光は、イゾルデの愛の死の法悦の中で、晝を壓倒するのである。

 《アイーダ》では、晝の世界に、マルケのやうな人間的な温りを徹底的に缺く。愛と云ふよりも獨占慾に燃えたアムネリスも、女である以上に、王女である。後の人物は、全て、近代のヒューマニティとは無縁の、神や國家の論理の冷嚴な執行者だ。夜の世界=この世で實現され得ぬ愛の世界は、神官と王に宰領される強烈な晝の論理の隙間で、僅かに芽を覗かせるに過ぎない。戀人二人を除く人々は、さうした運命の下で、平然と、その齒車を廻す側にゐる。二人は、その下敷になりながら、自分の心の眞實を見失ふまいとする。こゝでは、晝の世界の論理は、徹底的に愛を蹂躙し、夜は、死によつて、それに打ち克つのではなく、敗北の中で、辛うじて夢を見てをはる。アイーダは常に葛藤し、常に敗れる。そして、バレンボイムの指揮では、敗れゝば敗れる程、彼女の存在感は深く、強くなるのである。

 例へば、「勝ちて歸れ」の、深さ、自在なモノローグとしての際立つた存在感。モーツァルトのレチタティーヴォを支へる時のやうな、素晴しく雄辯な伴奏に乘つて、ウルマーナの歌唱は、完全に演劇的だつた。演劇的と云へば、2幕で、アムネリスがアイーダの愛を暴く場面に至つては、名優によるシェイクスピア劇を思はせる。アムネリスといふ人間が、またその愛の性格が、アイーダと正面から對決するこの場面こそは、バレンボイムの指揮では、明らかに前半の「山」だつた。そして、この部分が、こゝまで演劇的に刳られると、これが、3幕、今度は父に愛を賣れと試されるアイーダの苦惱と對照されて、アイーダの愛の姿を浮び上がらせてゆくといふ、ドラマツルギー上の主筋である事が明らかになる。

 凱旋から後、バレンボイムは、音樂の巨大さを徐々に漸増させ、最後は、合唱もオケも厚ぼつたい、たつぷりしたバレンボイムトーンで鳴らし切り、ホール全體が、初めて鳴動するに至つた。つまり、1幕からの晝の世界の強烈な陽光は、こゝでやうやく全貌を顯はし、完成した譯だ。バレンボイムが、このオペラに讀んだ壯大な構造が、明らかになつた瞬間である。

 後半は、徹底して敗者による夜の音樂に一轉する。

 3幕は、歌手さへよければ、面白いといふくらゐ音樂がよく書けてゐる。今日も感興充分であるが、ニールのラダメスが、やゝ一本調子である點を除けば、特記すべき點はない。

 4幕では、アムネリスの苦惱とラダメスとのやり取りで、バレンボイムは、オーケストラのあらゆる表現力を極限まで驅使して、歌手に挑戰してゐた。この最後の葛藤の後、裁判を經て、テンポは大きく弛緩し、最後の場は、まるで、マーラーの第九の終りのやうに、ピアニッシモ=エスプレッシーヴォの極限を歌ひ切つてゐ、バレンボイムに應へてのウルマーナは、見事の一言に盡きる。

 先程、私は、このオペラであh、「夜は、死によつて、それに打ち克つのではなく、敗北の中で、辛うじて夢を見てをはる」と書いた。だが、その夢は、人間の最後の據り所としての、愛の場所である。4幕の終りは、さうした愛の辿り著いた安らぎなのだ。イゾルデの愛の死を聽きながら、トリスタンを思ひ出すことは不可能である。そこでは、彼女が愛してゐた他者としてのトリスタンの個體は消え去り、より根源的なエロスが、會場を浸してゐる。その瞬間、我々は、二人の愛を見屆け、體驗してゐるのではなく、ひたすら、あの至高の音樂を體驗する。

 《アイーダ》は、さうではない。

 始め、別々の獨白を繰り返してゐたアイーダとラダメスが、最後身を寄せ合ひながら、愛の死に共に身を委ねる。彼らは、それを選んだのであり、愛の確乎とした手應への中にゐる。アイーダは、美しい沃野としての彼岸をラダメスに語り掛ける。最早、そこは墓場ではない。安らぎに滿ちた闇である。アイーダのヴィジョンが、現實の陰に美しく咲き匂ふ時、夢はラダメスを深く慰めながら、温い安らかな闇へと無限に溶け出す。二人は確かに結ばれ、會場は、清められた夜となる。(この項續く)

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