奇跡の巨匠、ティーレマンの更なる衝撃(1)小川榮太郎(2009年10月22日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年10月22日より)

クラシカ・ジャパン放映の未發表DVD

 今月、クリスティアン・ティーレマンの未發表DVDが3作品、クラシカ・ジャパンで放映された。ウィーンフィルとのベートーヴェンの交響曲《第1》《第2》。ミュンヘンフィルとのブルックナーの第4交響曲《ロマンティック》。そして、ウィーン國立歌劇場でのヴァグナー《ニュルンベルクのマイスタージンガー》全曲で、いづれもライヴ録音である。

 私が、ティーレマンを絶讚しても眉唾だ、惚れた女のあばたもえくぼと思はれるかもしれないが、それは違ふ。私は惚れる時には、徹底的に深入りして惚れるが、どんなに惚れてもあばたがえくぼにはならない。昔、河上徹太郎は、うまい事を云つた、或る對象を批評してゐると、段々その對象が好きになつてくる、するとあばたもゑくぼではなく、あばたがえくぼになるのだ、と。これは批評家魂の妙を衝いてゐるが、小林秀雄や私のやうなタイプの批評家は、そもそもあばた持ちに惚れないのである。批評家としても人間としても、或る種の窮屈さなのだが、資質だから、仕方がない。今、時折寄稿してくれる石村利勝君などは、昔から、「あばたがゑくぼ」組だつた。シューリヒトや朝比奈の、それも決してコンディションのいゝとは云へないやうな演奏を拙宅に持込んでは、しきりに私を惱ましたものだが、しかし、それが本當に人が人に惚れる味なのかもしれないと、この年になると思ふ。要するに、私はあばたに關して、晩生だといふ事になる譯か。

 それはともかく、この度の映像に聽くティーレマンの更なる成熟と偉大さは、言葉にならない程だつた。探求の餘地はまだまだあると思はれたのは、ベートーヴェンだが、ブルックナーとマイスタージンガーは、驚異的な名演だ。ベートーヴェンの《第1》は物足りない。フルトヴェングラー、ヴァルター、トスカニーニ、朝比奈(新日フィル盤)ら、歴代の偉大な名盤とは較べられない。詩情や零れる青春の迸散、或いは剛毅なまゝ推してゆきながらも、ニュアンスに輝く音樂の鮮度が、分厚いテクスチュアに埋つて、平凡に聞えるからだ。尤もこれは、我が家の機械では、映像再生音が拾へなかつたのかもしれないので、將來DVDだけでなく、CDも出るのなら、話は變るかもしれない。しかし、近年のレコードの中でも、モーツァルトの《レクイエム》などはさほどの演奏ではなかつたし、映像でも、ブルックナーの《第7》は、來日時の《第5》や今囘發表された《第4》より大分落ちる。音樂を手の内に入れるのに時間がかゝり、又、不得手な作品も多い人なのかもしれない。

 一方、同じベートーヴェンでも《2番》は、遙かに良い。とりわけ、2樂章の、シューマンを先取りした濃厚なロマン派的な歌への沒頭は深い。華ぎながら、冥想のやうな沈默が背後で流れてゐる。再現に入るところで、チェロ奏者が大寫しになつたが、目を閉ぢて音樂の中に沒頭しきつてゐるのに驚いた。心で指揮とつながつてゐるといふ事なのか。團員からの、これ以上の、指揮者への贊辭はあるまい。しかも、それが、ウィーンフィルなのである。

 だが、感銘の點で類を絶してゐたのは、《ロマンティック》である。詳細は省くが、雄大な流れと、音樂的な抉りが、同時に兩立してゐる奇跡! チェリビダッケのやうな視覺的に壯大な構造の俯瞰と、フルトヴェングラー的な感情のデュナーミクとが、高度な融合が達成されてゐる奇跡!

 2樂章は、内面的な領域への肉薄に、まだ物足りなさを感じたが、他の樂章は、驚くべき巨大さで、家のオーディオで聽いてゐてさへ、身體がのけぞるやうだ。3樂章の無限に擴大し續けるやうなクレッシェンドは、どうだらう。一轉してトリオの可憐さは愛情で零れ落ちさうな程甘美なのだ。

 4樂章は、チェリビダッケの《ロマンティック》の、まるでヴァグナーの樂劇を聽くやうな精緻で一貫した悲劇の感覺に較べると、即興的な演奏である。チェリが壯大な悲劇を眼前に見るやうだとすれば、ティーレマンは、音樂全體が歌ひ、咽び、陶醉し續ける。私は、映像を前に、涙を禁じ得ないまゝ、25分があつと云ふ間に過ぎた。豫感に滿ちた導入部から、氣の遠くなるやうな、ティーレマンクレッシェンドの涯、3連符を粘りに粘りながら、主題想起が高らかに祝祭の夜明けを告げると、もうゐても立つてもゐられない興奮で、身體中の血液が逆流しさうになる。この人の音響感覺は、人の心を甚しくかき亂すのだ、多分、生演奏のフルトヴェングラーがさうだつたやうに。

 第2主題の愛らしさはチェリビダッケを思はせるが、胸に直かに染みる感情的な溢れがある。再現からコーダに掛けては、極限までテンポを落としながら、ディミニエンドが無限に音樂の深みにはまつてゆく。そして、あの夜明けのやうなコーダ。チェリビダッケの掟破りの弦の刻みを、そのまゝでないまでも、基本的に蹈襲した、超スローテンポである。チェリの遲いテンポは、嚴格に建築的で、音樂はそゝり立つが、ティーレマンの場合は、同じやうにゆつくり演奏しても、音樂は建築に轉化せず、感情の襞に染みわたる歌になる。コーダの始まりで、既に、戀愛の豫感や懊惱のやうな、無限の懷かしさが溢れ初めて、私の陶醉は極限に達した。

 時間よ止れ、おまへは餘りに美しい。ああ、あのクレッシェンドと輝かしい3和音よ、やつて來ないでくれたまへ。諸君の輝かしさは知つてゐる、だが、私はこの甘美な豫感の住人でゐたい、この甘い魔法からどうしても醒めたくないのだ、永遠に、永遠に!

 しかし、期待は裏切られ、時間は止らない。さう、たうとうやつてきた、あの、無限に廣がるティーレマン・クレッシェンドの大海原が。そして、解決。音の亂舞は餘りにも眩ゆく、目を明けてもゐられない程。さながら天上の音樂が、そのまゝ地上に降りたかのやうだ。

 ……終演後、長い長い沈默。涙。吐息。そして、徐々におづおづと拍手が起り始め、やがて會場は、嵐のやうな喝采で覆ひ盡される。祝祭の停めどない完成。あの沈默のまゝであつたならば、最早地上に戻つてこられない事を知つてゐたかのやうに、バーデンバーデンの聽衆は、我先に叫び續けてゐた。(この項續く)

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