ダニエル・バレンボイム指揮/ベルリンシュターツカペレ管弦樂團/シューマン交響曲全集を聽く(2)(2009年11月13日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年11月13日より)
第1交響曲《春》 變ロ長調作品38
(承前)だが、これは前座である。スコアを見ながら、注意深く繰り返し聽き始めると、3つの名盤から聽こえてくるものは、まるで變つてしまふからだ。
バーンスタインは、要所での派手な音樂の作り、とりわけウィーンの管が、その鮮やかな魅力の主因で、本當に丁寧なスコアへの肉薄は見られない事が、すぐに明らかになる。凡百の演奏とは比較にならないが、内容以上に、聽かせ上手なのである。
クレンペラーは、造形の搖ぎなさなどを指摘する批評があるが、實際には、構造の把握はやゝ不安定で、音樂の展開を粘り強く追跡するより、部分部分に即興的に遊んでゐる。たゞし、響きの壯麗な立派さと、遲いテンポが、やゝ不注意な聽き手には、安定と聞える。だが、風格がある。柄の大きな人間の謦咳に接するやうだ。
音樂は何と純粹に音樂的なものに還元されきつてしまつた事だらうと、遠山一行氏が歎いたのは、もう何年前の事になるだらうか。例へば、氏によれば、かつて、ウィーンフィルの演奏といふものは、普段着の場合、ずゐぶんだらしのないものだつた。だが、自分の音樂を自分の言葉で話してゐるといふ人間の手觸りがそこにはあつた。さうした人間的なコミュニケーション、聽衆への信頼の中に音樂は生きてゐた。
レコード時代になり、カラヤンによる完璧さが演奏に導入されて以後、音樂は、餘りにも純粹にスコアに還元される音樂に痩せてしまつたのではないか。音樂をやる人間といふ生き物への信頼や共感の代りに、人間への根深い不信があるから、マーケットに安定して出せる完璧な音樂といふオブジェを人は必要とし始めたのではないか。私流儀に敷衍すれば、遠山氏が言ひたいのはかういふ事だつたに違ひない。
クレンペラーを聽いてゐると、自分の音樂を信じるといふ當然な振舞が、高度に生きてゐた時代の生き殘りだと感じる。俺といふ人間が、かう感じた事を、そのまゝやつてみたのだ、諸君どうだね。シューマンは、なかなかよくやつてゐるぢやないか。まあ、そこここに危なつかしい所はあるが、僕は、見事にごまくわしてやつたよ。――
それは、それで見事な行き方だ。が、今囘、スコアを片手に、注意深く聽けば聽く程、驚いたのは、バレンボイムの讀みの精妙さであつた。クレンペラーの大きさの前に出しても、びくともしない實に強いだうだうたる深みから、音樂の言語を發してゐる。あらゆる瞬間に、あらゆる樂器がたゆたい、また、アゴーギグとデュナーミクも、主題相互の關係も、この上なく細かい讀みが施されてゐる。しかも、それが、指揮者の一方的な解釋ではなく、團員が、自發的に消化して己の言葉と化してゐる、その喜びがはつきり聞える。
確かに、地味な印象は強い。ベルリン國立の音色にもよるのだらうし、又、バレンボイムが、バーンスタインのやうに、派手なリップサービスをしない爲でもあるだらう。バーンスタインは、シューマンのくすんだスコアに華やかさを取り戻す。それは確かに魅力的だ。しかし、そのやうな一瀉千里にエネルギーが突つ走る輝きとは違ふ、内側から徐々に温まる音樂の大きさといふものが、バレンボイム盤にはある。バレンボイムは、どうかすると陰鬱さに沈みがちな、シューマンの精神の危機を、そこここにはつきりと聽いてゐる。聽き手は、注意深く音樂の内部に降り立つこの指揮者によつて、シューマンの音樂の、やまひと晴朗な希望との葛藤に、徐々に氣づかない譯にはゆかなくなる。私は、バレンボイム盤を注意深く聽き直す内、餘りにも音樂的な讀みが充實し、縱横に張りめぐらされてゐ、それが實際に音樂的な力として、作品を蘇らせてゐる樣に、何度となく、興奮を禁じ得なかつた。驚いた事に、その後で、スコアを見ながら、バーンスタインを聽くと、バレンボイムが拾ひ上げてゐる丁寧な讀みの殆どを、バーンスタインが如何にすつ飛ばして音樂してゐるかが、まるで手に取るやうに見えてきてしまふ。正直な所、最後まで聽く興味さへ、急激に薄れてしまつたのである。
スコアを見ながら聽く事で、演奏をたゞしく聽けると言ひたいのではない。チェリビダッケは、練習を見學に來た若者が、スコアを廣げるのに對し、「スコアの勉強は家で出來る。今はきくことに集中しなさい。」と諭すのを常としてゐた。スコアを見なければあれこれに氣付かない程、私の耳は雜駁なのかと、寧ろ、慨歎した。どうやら、レコードを聽く事は、どれだけ自戒してゐても、音の消費に限りなく近づいてしまつてゐるやうだ。我々は、CDの便利さの代償として、どれだけの注意を支拂つてゐるだらう。多分、氣を付けてゐても、音樂家の語る精妙極まるメッセージを受取るやうな心の態が、まるで出來てゐないまゝ、音樂を聞き流してしまつてゐる場合の方が多いのではあるまいか。
そして又、考へなければならぬ事ではあるまいか、かうした注意散漫な聽き手といふ環境が育てる演奏家達が、期せずして、どのやうな水準に低下して行つてしまふかを。
次囘は、3人の指揮者による第1樂章を、やゝ詳しく見てゆきたい。(この項續く)