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クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘンフィルハーモニー管絃樂團(平成22年3月29日 於サントリーホール)(1)小川榮太郎(2010年03月31日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年03月31日より)

クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘンフィルハーモニー管絃樂團(平成22年3月29日 於サントリーホール)(1)小川榮太郎

ヴァグナー〈タンホイザー〉序曲 ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ベートーヴェン交響曲第5番

 ブルックナーを中斷して、最終日の批評を先に掲載する。記憶が遠ざかつてしまふのを避ける爲である。御諒承願ひたい。

 音樂體驗は一囘一囘が、絶對的なもので、その時に經驗するのは、突き詰めれば、私の内面でしかない譯だらう。何にどう感動するか、草の一そよぎに生涯忘れられない感銘を受ける事もあれば、どんな偉大な演奏も馬耳東風といふやうな事も、人生にはしばしば起る。感動が大き過ぎれば、身體が、防禦して感動を抑制することもある。音樂體驗程、かうした心的なコンディションに左右され易い藝術は、他にない。

 名古屋と同じプログラムだつたので、比較したくなる氣持は避けられないが、ティーレマンのやうな偉大な音樂家の生演奏の體驗では、嚴正な出來不出來を語るのは難しい。たゞ、私の印象としては、プログラム前半のヴァグナーとブラームスは、今日の方が格段に見事だつた。後半の第5は、寧ろ、逆で、あの名古屋で激甚な感動の原因となつた4樂章に、今日の私は素直に付いてゆききれなかつた。演奏の出來が惡かつたのでも、士氣が低かつたのでもない。これ以上ない程の見事さだつた。私は、今晩だつて、もし演奏會があれば、又、あの第5は是非とも聽きたい。何よりも、ベートーヴェンに對して、これだけ、純一無雜に集中し、沒頭する演奏など、今どきめつたに聽けるものではない。ベートーヴェンが、今日の精神生活に輝かしいリアリティを持ち得るといふ最良の證明の一つが、今囘のティーレマンの來日公演だつた。が、それにもかゝはらず、一方で、今日の公演では、醒めてゐる自分がゐたのは疑へない。

 音樂會通ひを長年――カラヤンを普門館(!)で聽いた時から數へて、何と30年になる!――續けてゐると、必ずぶち當るのだが、最上の演奏が、最高の感動を必ずしも約束しないといふ不思議は、一體、どこから發生するのだらう。確かミュンヘンの音樂批評家のウムバッハが、チェリビダッケに關する著書で、同じ趣旨の事を書いてゐた。最高の出來榮えの筈なのに、まるで感動できないコンサートがあるかと思へば、二度とこのやうな時間はあり得まいといふ程、決定的な體驗となることもある、それがチェリビダッケのコンサートだ、と。これは全く同感で、私は、チェリビダッケの來日公演で、完全に、期待通りの感動を覺えたのは、多分、サントリーホールでのブルックナーの第8と、最後の來日時のシューベルトの未完成交響曲だけだつたと思ふ。それ以外、何度彼を生で聽いたか解らないが、いつも、何かが不足してゐるか、何かが過剩だといふ印象に付きまとはれたものだ。これは、おそらくフルトヴェングラーでも生で聽けばさうだつたらう。一囘、一囘の公演に、完全に消耗するやうな、新しい、實驗的な、野心的な意欲で臨む時、樂曲が奏者に要求してゐる要素が大きければ大きい程、公演は、失敗の公算をより大きく孕んでしまふ。

 前置が長くなつたが、ティーレマンの〈第5〉、これは全く驚くべきものだが、ぎりぎりの賭けであり、少くとも、今晩、私が何かを捉へ損ねたか、ティーレマンが何かを捕まへ損ねたか、といふ事が、ごく微妙な領分で生じたのである。あへて言へば、それは第3樂章のどこかで、演奏家か私のどちらかの内側に生じた。トリオに入つた時に、微妙な集中の散漫として、それは生じたやうな氣もする。ピアニッシモになつてから、咳が續いた爲に、生じたやうにも、思はれる。より根本的に言へば、前半のプログラム、特にブラームスが素晴し過ぎて、私の感動の許容量を、後半の演奏が超えてしまつたといふ事かもしれない。だが、本當のところはよく解らない。

 第1樂章は、先日書いたやうに、ティーレマンから豫想される演奏とは正反對の、晴朗で抑制の效いたアレグロ・コン・ブリオである。決して力まない。跡絶えぬ流れのやうだ。それはフルトヴェングラーのやうなモニュメンタルなものでないばかりではなく、快速の中で、あのモットーを強烈に誇張するカラヤンやカルロス・クライバーとも違ふ。モットーは、流れの中に融け込んでしまふ。

 これは、ティーレマンの獨創といふよりも、今日に一般的なとらへ方だが、私には率直のところ、物足りない。この1樂章は、やはり、奏者にも聽き手にも無理を強ひるところに、表現の意味の大半があると言ふべきだらう。メンデルスゾーンにピアノでこの1樂章を彈いてもらひながら、「全てが誇張されてゐる、これは音樂なんてものぢやない。」と抗ひ續けたゲーテは正しかつた筈だ。もし、第五を今日に再現するのならば、ゲーテが感じた抗ひ、いや寧ろ怯えを、今日の聽衆に何がしか分たなければ、意味がない筈だ。

 無論、ティーレマンの演奏は、似たやうな行き方をする他の指揮者らとは、藝格がまるで違ふ、それは確かだ。モットーそのものからして、ごく微妙にだが、テンポは遲めにとられ、奏者らが、そのテンポを自分で確保してから、息も付かずアレグロに入る、かうした呼吸は、易しいやうで極めて難しく、これが大變な名人藝であるのは、解つてゐる。その後の主題確保から、第2主題に向けての弦と管の絡み、これも、どことなく優美な餘裕を保ちながら、音樂の齒ごたへは失はれない。第2主題の入りも疉み掛けるやうな氣合があり、そして弦のソットヴォーチェの見事さ。クレッシェンドの前に、息をのむようなディミニュエンドを入れて、第3部を一氣に乘り切る。展開部も特に仕掛がないのに、とにかくあらゆる音樂が驚くべき生氣を持つて、聽き手を挑撥する。この挑撥が聞えないとすれば、その人は音樂ではなく、スコアの書込みを、演奏から聽かうとしてゐるだけなのだらうと思ふ。そしてオーボエのソロの餘韻嫋々たる歌の美しさ! ブラームスの2樂章と言ひ、この奏者は、本當に素晴しい!

 再現後半からは、内燃するエネルギーが上がりつ放し。やうやく、最後のモットーに至つて、大きな溜が入るが、決定的な鐵椎といふやうな震撼はない。とにかく、全體に、葛藤のない、晴朗な演奏なのである。例へば、似た行き方の一樂章にバレンボイムのそれがあるが、WED管絃樂團を振つた素晴しいDVDを聽けば、この一樂章、特に後半を、ティーレマンよりも遙かに精妙な葛藤の表現と化してゐるのが、解るだらう。ティーレマンでは、ベートーヴェンの葛藤は、1樂章で既に淨化、解決されてゐるやうに聞えてしまふ。今囘ティーレマンは、二つの偉大なハ短調交響曲を持つてきたのだが、いづれの1樂章でも、ハ短調特有の激烈な葛藤に、踏込まうとはしなかつた。それでゐて、物足りないのではない。音樂は、寧ろ、喜びの充溢の限りを盡くす。これは、私にはとても珍しい經驗だ。先行する例が思ひ出せない。これが何を意味してゐるのか、今暫く、時間を掛けて、考へてみたい。

 第2樂章は、稀代の名演である。冒頭の歌、深みある低弦の音色に、まづ陶然とする。フレージングは自然で、抑へられた歌は、燭芯がほのかに搖らぐやう。10小節からの木管アンサンブルの委細を盡くした味はひ! ミュンヘンフィルの木管群は、前囘來日時とは比較にならぬ程、質が向上した。高度な音樂性といふ意味で、私が近年聽いた木管アンサンブルとしては、ロンドン響、ニューヨークフィル、ウィーンフィル――但し、本氣出した時だけ――と竝ぶ。しかも、くはへて、歌への眞摯な沒頭がある。首席フルートは歌ひ過ぎて、テンポを置き忘れてしまふ事もあるが、これなど、レコードに聽くフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのライヴを思ひ出す。昔はかうだつた、とその昔に生きてゐなかつた僕が託つのもをかしな話だが!

 そして、15小節で弦が應答して、主題は閉ぢられるのだが、この20小節間が、どんなに見事な小宇宙だつたらう。ベートーヴェンのダイナミクス指示は非常に細かいし、16分音符、32分音符、3連符が、入り亂れて、味はひを複雜なものにしてゐる。フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤンらは、實は、音價に關してはずゐぶん適當だが、ティーレマンの音價やダイナミクスへの吟味は、これ見よがしではないが、しかし、近年の蟲眼鏡樂派のそれよりも、音樂的に綿密を究める。

 と書いた以上、23小節からのピッツィカートが如何に生きてゐるか、とか、ファンファーレを導く弦の表情、ファンファーレそのものの堂々たる響きと、内聲の豐かな感興が如何に見事だつたかなどと書いてゐてはきりがない。

 大ざつぱな話に切り換へる。樂章後半に、音樂的なダイナミズムが擴大してゆき、何度目かのファンファーレで、到頭大見えを切つて、磐石の低音の上に乘るトランペットの輝かしさ。114小節から低弦が主題を變奏する上に、弦の刻みが乘る場面では、完全にチェリビダッケの方法が蹈襲されてゐた。最初ピアノで始め、徐々にクレッシェンドし、最後は豐麗なレガートが溢れるやうに輝く。逆に225小節から大きな呼吸でテンポを落として、大きな沈默を作るのは、フルトヴェングラーの方法。(ちなみにこのテンポの落とし方は名古屋の方が大きかつた。)でも、こんな事をわざわざ書くのは、ティーレマンを、彼らの眞似つ子チャンコ鍋だと言ひたいが爲ではない。個性的なやり方を發明するのが、演奏家の役割ではない。樂譜を自分の目で讀み切る事と、傳統的な叡智を繼ぐ事。これは決して矛盾する營みではない。或る時、プフィッツナーの指揮するベートーヴェンやブラームスを幾つか聽いて驚いた事がある。フルトヴェングラーの獨創と思つてゐた解釋が、幾つも聽かれたからだ。云ふまでもなくプフィッツナーはフルトヴェングラーの師である。

 要するに、225小節でルバートを掛けるだけならば、私が指揮臺に立つても出來る。だが、今日ティーレマンが聽かせたやうな、偉大な2樂章は、偉大な音樂家による、音樂的なあらゆる課題の解決のプロセスでしか、決して出現し得ない。(この項續く)

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