ティーレマン指揮のブルックナー交響曲第8番(2)小川榮太郎(2010年04月10日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年04月10日より)

ブルックナー交響曲第8番
クリスティアン・ティーレマン指揮ミュンヘンフィルハーモニー管絃樂團來日公演(3月28日:於横濱みなとみらいホール)

(承前)

 あの濃密なティーレマン體驗から、大分時間が經つてしまつたが、ブルックナーのレヴューを簡單にでも纏めておく。

 第2樂章は、或る意味で最大の聽きどころだつた。遲めのテンポであるが、豪快な押相撲ではなく、弦のトレモロや木管の囁きに多樣な意味を持たせ、奏者同士がデュナーミクを聽き合ふ演奏で、聽き手も又極度の集中を迫られる。フルトヴェングラー(49年のベルリンライヴを私は偏愛する。)の、呪術的な狂亂怒濤と、カラヤン晩年の、重たいリズムとこぼれるやうな官能の魔力が奇跡的に直結してゐるカラフルな演奏とが、この曲の解釋の兩極にあるが、ティーレマンは、いづれからも遠い。

 冒頭の弦の32分音符の絶えず顫へながら、主題への扉を開くあの生々しい豫感。3小節から出る低弦の主題のメゾフォルテとフォルテの絶妙な對比。さうした細部への注意力は、さう、例へばベームの几帳面さや、それより遙かに機械的なヴァントのスコア・リゴリズムとはまるで違つて機能してゐる。室内樂的に恢復された精妙な秩序の歌、とでも言はうか。

 例へば、目に見える解釋上の仕掛からさうした事を説明しようとするなら、49小節からの最強奏で、フォルテ3つの指示がある弦を、途中で、スビド・メゾフォルテにギアチェンジし、しかも音樂のダイナミズムを些かも損はないまゝ、後半に向けて改めて力の限りクレッシェンドしてゆくやうな手法。かうしたやり方が、大向う受けを狙つてではなく、寧ろ聽き手の注意を音樂の微妙な發言に向けてゆく、さうした箇所が頻出する演奏なのである。まるで、カントの箴言のやうに、「内なる道徳律と星辰の運動」と言ひたいやうな音の生み出す靜寂としてのスケルツォ――。

 だが、一方で、緩徐部分でのティーレマンは、何といふ歌ひ込みに沈潛してゐた事か。スケルツォ主題のB部分は、耽溺と懷かしさの餘り、止まつてしまひさうだ。一方、トリオの尋常でない祕やかな氣配、特に後半、コラール主題の敬虔な祈りのまゝ、いつしか、感情の溢れを制禦できなくなり、神を前にして、懇願の涙にくれるやうな頑是なく、邪氣ない歌! これは、モーツァルトの無垢が、フランス革命、ヘーゲル、ヴァグナー、ダーウィニズムといふあらゆる過激な進歩主義に汚されてしまつた後になほ、一層深い孤獨と一層情熱的な神への思慕の中で、恢復された奇蹟の時間なのではあるまいか。福岡公演で、始めてティーレマンの《第8》を聽いた時に、このトリオの爲だけにでも、福岡に出向いた價値はあると思つたものだつた。スケルツォは後半一層集中力を帶び、この單純な繰返しの音樂に、私はすつかり夢中になつた。これは容易ならぬ事だ。この音樂の後半が、單純な繰返し以上に聽こえる事などめつたにないのだから。曲尾では、大きな大きなリテヌートと、その後に殘るオルガンのやうな響き! まるでアルプスの山竝に圍まれて、山々の鼓動を聽くやう。

 3樂章も、樂曲への深い理解と、音樂的な追求の徹底で際立つ。福岡公演ではたまたま座席の眼の前が時計だつたので、見るともなく計つた處、演奏時間は32分だつた。チェリビダッケ最晩年のEMI盤が35分なのだから、チェリがノヴァーク版、ティーレマンがハース版といふ差を考へても、非常に遲い演奏である。先日、カラヤン=ウィーンフィルを改めて聽き直して、メロウだが、思ひの外テンポの速い、樣々な音樂的要素に拘泥しない演奏振りに驚いた。さうした點では、50才のティーレマンが實現してゐる表現の周到ぶりは、既にカラヤン晩年の境地を大きく凌駕してゐると言つていゝ。

 ティーレマンの3樂章は、小林秀雄の『本居宣長』のやうである。靜かに淡々と、しかし極めて稠密な、思想の審美化された世界にやはらかく包まれるのだが、さて、讀後卷を閉ぢてみると、中身が思ひ出せない。

 例へば、チェリビダッケは、極限的な遲さを支へる構造上の明晰な把握を前面に打出しつゝ、實際には、冒頭の付點の、重荷を擔ふやうな喘ぎを全曲の基調低音として、まるでもう一つの大審問官のやうな、實存的な問掛けへと聽き手を誘ふが、ティーレマンには、さうした音樂的構造の明示や、表出意圖の重さはない。彼は音樂の内部を潛る。極めて注意深く、愛情深く、彼は音を辿り、歌ひ直してみる。彼は無心に歌ふ。さうして、彼は、再現された音の一つ一つが何を語り掛けるか、じつと待つ。音樂は問ひを發して聽き手に迫るのではなく、演奏者によつて限りなく慈しまれ、聽き手を微光に包む。つまり、テンポの遲さは、作品の構造や内容から要請されたのではなく、專らティーレマンの愛情に由來してゐる。興味深い事に、その時、ブルックナーの冥想は、チェリビダッケの演奏以上に、禪的な美意識に近づく。チェリビダッケのそれが、彼の禪への傾斜にもかゝはらず、結局は西洋の最高度の論理から導かれた存在論的な問ひだとすれば、ティーレマンが期せずしてブルックナーに見出した音は、はるかに徹底して沈默そのものと言へるからだ。

 例へば、第1主題。チェリビダッケでは、最初の付點の苦しさや7小節からの下降音型の吐息が、甘美な絶望のやうに心に刺さるが、ティーレマンでは、主題全體が上昇してゆくおほらかなラインが見え、チェリビダッケが見出したやうな苦しげな表情は、背景に退いてゐる。特に、18小節に向つてゆく昂揚時の、音達の手放しの開放的な歌! 何と心を自由にする調べだらう。今も、音がほどけ、ホール一杯に歌が滿ちてゆくあの瞬間は忘れ難い! だが、こんな風に自立し、純粹で、自足した歌を、評家はどうやつて言葉で捉へよう?

 だが、終つてみて、特に印象的なのは、後半で、何度も何度も昂揚の極みに上り詰める執拗なクライマックスの山脈よりも、その後に來るコーダの、誠實な音樂の佇ひの方である。 誠實? さう、ティーレマンといふ音樂家が、もし、歴代の巨匠の中でもとりわけ際立つてゐる點があるとすれば、音樂の内部に彼が沈潛して行く時の、愚直なまでの誠實さだらう。眞つ向ひた押しといふ氣味合の、あの音樂との對峙だらう。

 この《第8》のコーダは、ブルックナーが《第9》のアダージョコーダで達成したような、超絶的な奇蹟の淨化とは違ふ。音樂的な完成を超えて、天に向ひ、神の國に向ひ、或いは宇宙に向ひ開かれた、あの《第9》の自由な音の戲れではなく、まだ、樂曲構造の内部に閉ぢてゐる。これは、《第9》の方が和聲上の自由度が前進してゐるといふ事とは、必ずしも關係ない。《トリスタン》にせよ、マーラーの《第9》にせよ、聽き手を解放するよりも、強烈なモノローグにとぢ込めてゆく事を思ふがいゝ。機能和聲からの自由は、音樂が聽き手に與へる自由の度合を決めるとは、全く言へない。これは餘談だが、《第9》の場合とは違ひ、《第8》のアダージョは、音樂から解放された何かへと、ブルックナー自身が、おづおづと手を差し伸べ掛けてゐる音樂である。だからこそ、そのコーダは演奏が至難なのだ。こゝではまだ語の全的な意味での淨化は、達成されてゐない。ブルックナーはためらひながら、夢の中に溺れてゆく。人生とといふ不可解な夢に、神への憧憬といふ夢に。ティーレマンは、極めて個人的な、室内樂的な親密な對話の音樂で、夢を織つてゐた、それがこの人のアダージョ理解の卓越性の證だ。主題が、徐々に緩やかに單音へとかへつてゆく。その時、聽き手は天上に神をあふぐのではなく、己の夢の暖さの中で、或いは干し草に微睡む温りの中で、神を夢みるだらう。だからこそ、その夢のまどろみから、大地を鳴動させて、新しい現實の力の漲りが、聽き手を襲ふのだ。

 勿論、それが4樂章である。そして、この樂章のティーレマンは、豫想外の速いテンポでの開始、第2主題の低弦の深い切込みによる壓倒的に豐かな歌。そして、チェリビダッケの傳統を繼ぐかと思はれた第3主題部の豫想外に輕快な扱ひ。全體に、もつと踏込んだ表出への意欲があるかと思つてゐた分、肩透かしな4樂章だつた。しかし、どこを取つても音樂に溢れてゐる。この人のヴァグナー、例へば、昨年クラシカジャパンで聽いた《マイスタージンガー》などから考へても、音樂の意味へと踏込んでゆくこの人の天才は疑へない。ブルックナーの《第8》では、さうした深讀みを殊更避けてゐるやうだ。これは、當然、ティーレマンのブルックナーへの現在の理解から導かれた選擇だらう。

 例へば、展開部の後半に非常に拘泥し、濃密に歌ひ込むクナッパーツブッシュ、全體がこれ以上ない激動の表現となるフルトヴェングラー、第3主題に強烈な表出を持込んだチェリビダッケらと較べると、この樂章のティーレマンは、女性的な、受け身な演奏だ。しかし、それは、朝比奈やヴァントのやうな、解釋を持込まないといふ名を藉りた不作意とは違ふ。音樂への理解が同日の談ではない。例へばその第3主題の再現。チェリビダッケが極度に遲いテンポで、生きる事の眞の悲哀と喘ぎを見出したあの箇所。勿論、クナッパーツブッシュ、カラヤン以下、そんな特別な音樂をこゝに聽いた指揮者は他にゐない。ティーレマンは、とりわけ、非常に速いテンポでさりげなく演奏する。だが、それは、不注意によるものではない。透明なテクスチュアによる室内樂的な演奏は、かつてこの部分から私の聽いた事のない、まるで空氣のやうにたはむれる無償の悲しみのやうだつた。音が觸れてはいけない程の悲しみと言はうか。音も立てずに空氣だけが歎きを歌つてゐるとでも言はうか。ブルックナーの音樂もこゝでつひに、「悲しみは疾走する、涙は追ひ付かな」くなつたのであらうか。

 コーダはドイツ樂派の典型的なテンポ操作で、大きなラインではフルトヴェングラー、カラヤンの線上にある。入りの部分でゆつたりと始め、クライマックスでテンポを引き締めながら、印象的な付點を疾驅して、全樂章の主題が同時に提示される場面で、若干ゆつたりと、しかし、決して遲過ぎる事のない終結。たゞし、勿論、最後のミ・レ・ドは極端なリテヌートと限りない餘韻が、鎭魂歌の終結のやう。(この項續く)

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