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ティーレマンの事、何度目かの。(2) (2011年05月14日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年05月14日より)

 次に、EMさんが今一つ樂しめないとおつしやつてゐたベートーヴェン、ブルックナーに就て。丁度EMさんと重なる指摘があつたので、石村君の手紙をご紹介してから、改めて雜談を書き連ねることにしよう。

「ご無沙汰。
ブログのクライバー篇、ようやく終わったな。
どうも君も途中から飽きてきている節があったけど、最後っ屁が実に利いていた(呵呵)
 息子クライバーじゃ貴兄の批評には役不足だろうよ。

 それはそれとし、ティーレマンとヴィーン・フィルのベートーヴェンをきいてみたよ。とりあえずエロイカと7番の2曲。4、5、8、9番もじき入手できそうだ。
 まず、ヴィーン・フィルがちゃんとヴィーン・フィルの音がするのに驚いたな。それも、1940年代のフルトヴェングラーとの演奏や戦後すぐのカラヤンとの演奏、シューリヒトのデッカ録音とかでしかきいたことがないような、極上の響きだ。この音だけでも評論家は膝を折って頭を垂れるべきだろうよ。
 その上で、ブルックナーをきいて僕が抱いた期待には、残念ながら及ばなかった。もっと感銘を受けるはずだと思っていたのだが、率直に言ってそこまでは行かなかった。
 それが何なのかはまだ自問中だが。
 これがたとえば、クレンペラーやヨッフムのベートーヴェンをきく積もりで、このくらいの演奏を聞かされたのだったら、大いに感心し賞賛の念が沸いただろうと思うのさ。演奏の格は紛れもなく高い。同じ土俵に上がれそうな指揮者は十人といないだろう。
今思っているのは、まだ「伸びしろ」を残している感じがはっきりきこえてしまい、今鳴っている演奏に完全に打ち込めない気がした、ということくらいかな。
 組み合わせの問題もあるのかもな。ドレスデンやミュンヘンだったら良かったのかもしれない。
 あと、やっぱり細かいところでいろいろ面白いことをやるけど、これはメンゲルベルクのセンスじゃなく、シューリヒトやニキッシュだよ。間違いなく。具体的な描写や分析は僕には出来かねるが、性質が違うと思う。むろんフルトヴェングラーは全く違う。彼には「仕掛け」はないからね。

忙しそうだけど、たまには音楽談義でも聞かせてくれ給え。
御忙しそうだけど体気をつけて。」

 石村君お得意の毒舌と獨斷に滿ちてゐるが、もちろん、それは、この一文が正確な批評だといふ意味である。毒舌でなくて増上慢、獨斷でなく無知、さうして本人は毒舌家であり獨斷家であると、得意氣なつてゐる言葉と人格とが、世の中には何とたくさん氾濫してゐることだらう。「最近の若い指揮者はバカの一つ覺えのやうにマーラーを振りたがる、ハイドンのメヌエットを滿足に演奏することすらできないのに。」といふチェリビダッケの「毒舌」は、「モーツァルトのオペラは年とともにどんどん難しくなる。」と言つた86歳のベームの「嘆息」と隣り合せにある。計り知れない自謙を知らない毒舌や、「怖れと慄き」に背筋を撫でられたことのない獨斷は、心の荒廢以外の何物でもない。さうした言葉の暴走が、決して知らうとしないことは、自問自答である。強烈な自責である。自責が自滅に繋がるほどの假借ない自己糾問である。さういふ危險を知りさへしない安上りな毒舌や獨斷は、あらゆる形での他者への攻撃となつて出現する。ゲッセマネの不眠の祈りを知らなければ、言葉は本當の刺も本當の花も持つことはできない。そもそも、メヌエットを指揮する困難に本當に直面し續けたのは、若い指揮者達などではなくチェリビダッケ自身なのだ。
 
 それはともかく、こゝで石村君が書いてゐるティーレマンのベートーヴェンで、「「伸びしろ」を残している感じがはっきりきこえてしまい、今鳴っている演奏に完全に打ち込めない気がした」といふのは、EMさんの「ベートーベン、ブルックナーを聞いていますが、(FM録音、TV録画)どうも今一歩楽しめません。」といふ感想とほぼ重なるし、「演奏の格は紛れもなく高い。同じ土俵に上がれそうな指揮者は十人といないだろう。」といふのは、歴代のヴァグナー演奏に親しんでをられると思はれるEMさんの、「私にとってティーレマンは何と言ってもワグナー!それも5年間にわたるバイロイトの指輪です。これについては自分にとっては最高の演奏と考えております。聴くたびにこれ以上の演奏があるかと思いながら聴きました。」といふ指摘と重なるだらう。

 石村君は輕妙に、だが、的確に、私の言はんとしてゐることを代辯してくれてゐると言へるのだから、今更私がごてごてと何かを加へる必要もないのかもしれない。が、物故指揮者を偏愛する石村君が、このたび、生涯の思想信條を捻じ曲げ、僕の今の土俵であるティーレマンに乘つてくれたのだから、少し贅言を加へる無駄を讀者にも許していただくことにしよう。

 私は、ティーレマン指揮ミュンヘンフィルとの來日公演は、地方も含めて、殆ど聽いてきたからその經驗から出發するが、そこでの彼は、ある水準まで完成に達した人であるよりも、毎囘、成否を賭けた音楽的冒險の遂行者であつた。トスカニーニ、セル、カラヤンのやうに、力技としての合奏力の壓勝が先にあつて、その上で冒險するといふ行き方ではない。ティーレマンは、アンサンブルそのものを賭金にする。合奏は表現の素材ではない。合奏の質の中に音樂的な表現の中核がある。音樂は、毎囘新たに蘇生する。さもなければ、彼は合奏の精度も音樂の質も、兩方共に失つてしまふ。このゲームは極めて困難である。ティーレマンは、時にぎりぎりの戰ひに疲れてルーティンに負け、時に果敢過ぎて失敗し、そして時に――想像を絶する程の、巨大な成功を收める。

 私が比類ない感銘を受けたのは2007年のサントリーホールでのブルックナーの《第5》で、これは、チェリビダッケのブルックナーの《第8》やバレンボイムの《トリスタン》と竝び、私には絶對的な經驗と呼ぶほかはない時間だつた。一方、同じ來日でのブラームスの《第1》は論爭の的になるやうな問題提議の演奏。ティーレマンは、この曲で、フルトヴェングラーやカラヤンのやうに聽衆を熱狂させることは、最初から考へてゐないやうだ。ヴァグナーに著しく傾斜したブラームスで、しかもクライマックスでも一切の力技を用いない。前囘の横浜でのブルックナーの《第8》も、效果から意圖的に顔をそむけたやうな演奏だつた。彼には探求したい音樂の姿があり、その姿を探し出す爲には、效果や直接的な興奮で聴衆を魅了することは、平氣で犧牲にする、といふのが、私の今までの經驗からの率直な印象である。

 生演奏でのベートーヴェンは《第5》を、名古屋とサントリーホールで聽いた。エキサイティングな經驗だつたが、單純に感動したといふよりも、これ又、冒險的な演奏で、その危い冒險を一緒に内部から辿る興奮で、私は身體に障る程疲勞した。こんな「疲勞」は、チェリビダッケ以來である。解釋は精妙・大膽だが、靜謐と言ひたくなるやうな、1楽章の不思議な肩すかし、2楽章でのフルトヴェングラーへの異常接近、3楽章から4楽章にかけての、勇み足、感情の持て餘し、音の洪水によつて、高熱にうなされての惡夢に近い程の感情上の混亂――さうした危險と隣合はせの演奏だつた。

 その二例。1楽章の第2主題、これはティーレマンの手にかかると何とも優美な歌になる。第1主題部よりも微妙にテンポアップして、エーリアルが空氣に掛けた魔法のやうに透明な無重力空間が現出する。それを、推移に移つたところで、微妙なスビト・ピアノをかけ、第3主題への爆発の豫感につなぐ。こんな不器用な説明では何も傳はらないだらうが、このわづか30小節の中で、どれ程多くのニュアンスと構造上の實驗が試されてゐることか。そして、聽き手の耳がそれを拾つてしまつたが最後、彼は、その意味を消化するのに、精神全ての勞力をどれほど使はねばならなくなるか! 一方フィナーレではフルトヴェングラーの解釋の一層の構造化がなされてゐた。冒頭に偉大なるドミソの雄大なクライマックスを置き、徐々にアレグロにテンポを擧げる。提示部の繰り返し、再現冒頭、そしてコーダと、このドミソは繰り返される度に、猛烈にテンポアップしてゆく、その冷静な構造上の計量と計算。その計量の上に乘つてホールに放たれる、常軌を逸した感情の洪水!

 ティーレマンのパレットは、餘りにも豐かで、彼は、そのパレットを持て餘してゐるかのやうだつた。豊かさを開いてしまつた以上、後戻りはきかぬ、私が生で聽いての《第5》の實感は、さうした危機としての表現、そして危機感を手放してしまつた時の、この人の墮落の恐ろしさの豫感、その入り交じりであつた。音樂が放つ感情量と技術と知性の分量が、餘りにも大きい。これに飮まれるか、乘りこなすか、さもなければ、虚僞の感情に身を委ねるか。ティーレマンの豐麗の眞横には、いつも惡魔がゐる。

 が、それはティーレマンに限るまい。昔の録音と比較する無理を承知で引合ひに出せば、フルトヴェングラーの1943年の録音の《第5》に些か似た經驗をした覺えがある。つまり、音としては、指揮者が實現しようとしてゐた事が過不足なく實現出來てゐると思はれるのに、何かが不發にをはつてゐる、感情上の差引勘定に關して、どこかに嘘又は空虚が入り込んで、全的な共感を阻んでゐる。壯年のフルトヴェングラーの餘裕が、音樂から微妙に眞實性を奪つてゐる。逆に、フルトヴェングラーの《第5》では、最晩年、パリでのライヴが、構造も、音も、感情の把握も、搖ぎない至藝といふ他のない偉大なバランスで達成されてゐる、私はさう聽く。勿論、人によつて贊否は樣々だらう、が一つだけ言へる事がある、それは、10種類以上のこの人の《第5》レコードは、彼の《第5》演奏が全て挑戰であつて、演奏の圓滿な意味での《完成》には程遠かつたといふ一事である。

 ハイドンによる古典主義的な美學の完成の先に、ベートーヴェンが一層嚴格な構造を樹立した記念碑が《第5》だつたとしても、この曲に「美學の典型」を見るのは間違つてゐるのだらう。ベートーヴェンは安定的な構成を突き破る、音のエネルギー構造の探究者だつた。後期の絃樂四重奏はそれを示してゐ、《第5》はその方向への決定的な第一歩だつたと考へられるからだ。フルトヴェングラーの演奏はベートーヴェンを後期ロマン派の美學と音響感覺で粉飾したものだといふ批判は、特にヨーロッパの音樂學者の間では、いまだに根強い。だが、フルトヴェングラーのベートーヴェンはヴァグナー及びポストヴァグナーの音響感覺や構造とは異質であり、むしろ、それらに對して批評として機能してゐると、私には思はれる。なぜなら、むしろ、彼のベートーヴェン演奏はかう問うてゐると、私には感じられるからだ、美學者らによる樣々なベートーヴェン像は興味深いが、ベートーヴェンを眞底つかんで演奏したと核心出來た時の、あの、生の底からくみ出されるやうな壓倒的な世界の立ち現われは何なのだ。有無を言はせぬ美と崇高、あらゆる言説を無效にするあの絶對的な莊嚴と熱狂は何なのだ、と。この問ひに答へを出した美學者を、私は寡聞にして一人も知らない。そして、フルトヴェングラーの挑戰は、大きく言へば、この美學的な問ひへの音樂行爲を通じての絶えざる挑戰だつた。

 ティーレマンの豐富なパレットが同じやうな意味での挑戰にまで達してゐるのか、単なるカラヤンシンドローム、それに續く古樂器流行への反措定で終はるのだらうか。それをもう少し考へてみるとしようか。(この項續く)

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