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アントニオ・パッパーノ指揮サンタチェチーリア管絃樂團/ラフマニノフ交響曲第2番他(1)(2011年07月26日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年07月21日より)

 時間が取れないので、短い原稿を少しづつ掲載してゆくことにする。讀者にとつても讀みおもりがしなくてかへつていゝかもしれない。或は、さう書きながら、結局のところ、ぼつてり重たい文章を拵へることになるかもしれない。まあ、やつてみませう。

 パッパーノ指揮のラフマニノフ。實は、このレコード、最近の愛聽盤である。パッパーノは4年程前に同じオーケストラと來日した時に聽いて、素晴らしく印象が良かつた。同時期に續けて聽いたケント・ナガノ、エステッカ・サロネン、ダニエル・ハーディングらの素晴しい指揮振りとあひまつて、ポスト・カラヤン時代の、極端な指揮者不毛期を脱したといふ強い喜びにひたつたものである。そして勿論バレンボイム、ティーレマン、ドゥダメル達。

 ヨーロッパ文明そのものの位置と意味が20世紀前半と大きく變つたのだから、彼らは當然、マーラー、R・シュトラウス、トスカニーニ、メンゲルベルク、フルトヴェングラーらとは、非常に違ふ音樂家達だ。あの頃のヨーロッパの強烈な帝國主義、軍靴の高らかな足音、革命、ファシズム、死に物狂ひの思想鬪爭、王朝の斷絶、白人至上主義、世界史の頂點であるといふ自恃、文化の爛熟――その中を生きた音樂家たちと、「歴史のをはり」のをはつた後、ヨーロッパのあらゆる意味での生産力の停滯の中を生きる現代の指揮者とでは、吸つてゐる空氣が違ひ過ぎる。僕らの中のどんな強烈な個性派や度量の廣い人間だつて、秀吉や信長たる事が到底不可能なのと同じやうに。

 文明と戰爭、創造と破壞、天才と狂氣とは、しばしば切り離せない。多分、今日の西側世界のどんな人と比較するよりも、例へばトスカニーニは信長と竝べた方が似合ふだらう。だが、それは今日の音樂家の魅力が戰前の大家よりも小さいことにはならないし、現代の音樂家らの個性の喪失といふことにもならない。情報が廣く世界に共有され、文明の平準化され續ける現代といふ時代の音樂家らの中に、その條件を生きる新しい逞しさと創造性と多樣性が生れてもいゝ筈だらう。ヨーロッパの、創造と破壞の爛熟期であれば生れなかつたやうな、別種のデリカシーが生れてもいゝ筈だらう。レコードを知らずに育つた世代と違ひ、レコードを音樂生活の前提に育つた今の音樂家たちには、レコードといふ消費物から音樂を取り戻すための苦鬪がある、それが彼らの表現に激しい緊張と高さを生む、さういふことがあつてもいゝ筈だらう。

 實際、最近のバレンボイムは、その最高潮の時には、フルトヴェングラー以上にやはらかく天翔けるし、ティーレマンはクナッパーツブッシュよりも易々と巨大なヴァグナーを實現してゐる。そして、彼らの巨大さや自由は、極めて緻密な音樂的思考、高度な批評、研ぎ澄まされた無私から生れたものだと、私は思ふ。同じやうに、最近のパッパーノはトスカニーニ以上にしなやかな輝きをオーケストラにもたらし始めたと言つていゝ。そして、今囘のラフマニノフは、その最高の證明である。

 現代の文化には多くの病と沈滯が指摘され得るが、少くとも指揮者の世界に關しては、私は現代を強い喜びと期待で受け容れてゐる。思へば、子供の頃からフルトヴェングラー戀愛病患者だつた上、青春期をチェリビダッケへの尊敬に捧げた私は、今、生涯で始めて、新譜といふものに心をときめかせるといふ經驗をしてゐるのである。

 雜談でをはつた。演奏批評は次囘1囘でをはらせる。

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