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クリスティアン・ティーレマン指揮ドレスデンシュターツカペレ来日公演(1)(2012年10月24日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年10月24日より)

ブラームス交響曲第3番/第1番/アンコール:ヴァグナー「リエンツィ序曲」(10月21日京都コンサートホール/10月22日NHKホール)

 夢見るやうに美しいブラームスだつた。北ドイツの森林を散策する第3交響曲のトーンに導かれ、アルプスの夕景のやうな壯大な第1交響曲のコラールの美しさに茫然と見入るやうに聽き終へた、といふところであらうか。京都とNHKでは、ホールトーンや出來榮えに微妙な差はある。私の印象では第3番はNHKホールの、第1番は京都コンサートホールの出來が良かつたやうに思ふが、いづれにせよ、私の人生で、こんなに濃密にブラームスの世界に沒入したことがあつたかどうか。

 クリスティアン・ティーレマンは、ミュンヘン市とのトラブルにより、ミュンヘンフィルハーモニーの音樂監督の辭任が決まると同時に、ドレスデンシュターツカペレの音樂監督に迎へられることになつた。その決定は確か3年前のことだが、正式な音樂監督就任公演はこの9月1日だつた。音樂評論家の奧田佳道氏が、今囘の演奏旅行を《ハネムーン》と評してゐた。貴重な機會である。

 ドレスデンシュターツカペレは、世界最古のオーケストラだし、今囘のティーレマンの地位は、かつて他ならぬヴァグナーが就てゐたものだ。ミュンヘンフィルといふ比較的新しいローカルオーケストラから、ドレスデンヘの移動は、世俗的な意味では榮轉になるだらう。だが、ミュンヘンフィルとティーレマンのコンビは、他に代へ難い魅力があつた。ミュンヘンフィルがセルジュ・チェリビダッケの指揮の下で達成してゐた技術と音樂の高い成果を、ティーレマンは充分消化しつゝ、まるで百年前のやうな鬱蒼たるドイツの重みあるサウンドへと深めてゐたからだ。彼らの演奏を耳で聽くだけでなく、コンサートで間近に見るのは、實に幸福な經驗だつた。本當に音樂への愛で繋がり、あらゆるサウンドの可能性を試し合つてゐた。音樂をしながら、指揮者と團員が交はすアイコンタクトはまるで戀人のやうだつたのである。

 ドレスデンシュターツカペレは格式だけではなく、オーケストラランキングでもヨーロッパを代表するオケだが、就任直後の今囘の演奏會を聽く限り、ミュンヘンフィルよりも明るく線のやゝ細い響きは、ティーレマン本來の厚みあるソノリティとは異質だと思ふ。ヴァグナーがかつて「奇跡のハープ」と呼んだプラチナサウンドは今日でも健在だ。ミュンヘンの武骨さとは、同じドイツ的音色とされるオーケストラ同士とは言へずゐぶん違ふ世界なのである。低弦や強力に安定した金管が唸りをあげるミュンヘンフィルのフォルティシモに較べると、響き全體が細い。ティーレマンとの間で、どのやうな新たな音色への挑戰と實驗が繰り廣げられるかは、これからに待つべきだらう。

 また兩者は蜜月といふよりは新婚の緊張の中にあるやうにも見える。ティーレマンといふ人にしては、珍しいほどオケに氣を遣つてゐるやうな印象も感じられる。ミュンヘンやウィーンとのやうに音樂上の家族のやうな關係になるのは、これからなのであらう。

 細かいやうだが、木管の奏者の音色の多彩さや表現意欲にはやゝ不滿が殘る。またNHKホールのやうなデッドで巨大なホールでのブラームスでは、管樂器と絃樂器とのサウンドのブレンドや受け渡しに若干不安定さが感じられる。

 まあ懸念や文句はこゝまで。

 とにかく素晴しいブラームスだつた!

 第3番は、難曲だ。演奏技術の上でやたらに難しいのに、それが狙ひ濟ましたやうに效果の上らない書法の爲に費やされてゐる。手のこんだ書法で描かれるのは、突き詰められた嚴しい美の世界。いはば技術の粋を尽くして殆ど眞水に近い世界を狙ふ、頑固な藏本の出すとびきり辛口の極上酒といふところであらうか。

 リスト、ヴァグナーの展開してきた官能的で色彩豐かな世界を充分に知悉したブラームスのことである。これ程、鳴りにくいオーケストレーションは、鋭くそこを狙ひ拔いた結果と見なければなるまい。この曲は、ヴァグナーのやうに豪快に鳴つてはいけないのである。口ごもり、内向し、靜かな諦觀を歌ひながら、その底に激情を祕め、祕められた激情が、時に暗い情熱として爆發する。その爆發も、飽くまでも内燃するエネルギーであつて外向的な音響のカタルシスではない。

 しかもこれは室内樂ではない。ベートーヴェンが創造した、交響曲といふ純音樂の殿堂だ。内向する音樂が音のドラマ拔きに冥想と抒情に流れるだけならば交響曲である必要はない。交響曲である以上、ヴァグネリズムの陶醉とは全く違ふ、しかしヒロイックな高みに達しなければならない。

 この曲は、上記の二つの矛盾する命題として演奏家に投げ掛けられた、いはば謎だ。ブラームスの音樂的な保守主義は――あらゆる偉大な保守主義は同じ構造を持つのだが――リスト、ヴァグナーのやうな自由で樂天的な天才達による革命への、ぎりぎりの批評から生まれる。この曲は、その極限にある、恐らく第4交響曲以上に。

 さて、こんな前置をしたのも、ティーレマンが、まさにさうしたブラームスの創造の機微に的確に挑戰してゐたからだ。1樂章、アレグロ・コン・ブリオらしい溌剌たる出だし。音色はまさにプラチナトーン。F-As-Fと上昇し、瀧のやうに一氣に雪崩落ちる力學的な、あの出だし。そこに既に歌があり、逡巡の色があり、陶醉がある。6小節でソットヴォーチェ風に歌に沈潛して、その後のデュナーミクは音樂を愛撫するやうだ。どのやうな細部も、纖細な線で丁寧に歌ひ込まれてゆく。第1主題部を通じて、音樂的なエネルギーは減衰してゆき、その先で、可憐な第2主題がひょっこり顏を出す、かうした呼吸、一節一節の味はひの純正で歌心に溢れてゐる樣はどうだらう。ヴァグナー風の重厚なブラームスとも、カラヤン風に苛烈華麗に進行するブラームスとも對極にある。全曲を通じて、テンポの振り幅の非常に大きな演奏だが、殆どフルトヴェングラーと同じ動かし方である。

 が、テンポは殆ど同じ動き方をするのに、フルトヴェングラーのあの自由さとは違ふ。手放しな歌ではない。寧ろ、ブラームスの音のゆくへを見定めやうとする、さういふ歌ひ方だ。いはば「目の力」がこの演奏にはある。存分に歌ひながら、音を見定める節度とでも言はうか。それが又、ブラームスの第3らしい奧行を演奏に與へるのだ。

 豐かな情熱で繰返される主部を過ぎ、展開部前半のあのラプソディックな燃燒、そして後半に音樂が止まりさうになるまでテンポを落としてのロマンティックなたゆたひい、そこから再び雄々しく立上がる再現部の力感と再びコーダでの沈潛。かう書くとまるでフルトヴェングラーのやうだが、同じアゴーギグを驅使しながら、ティーレマンの演奏は、敍事詩のやうな古典的な明徴さで曲を隈取る。見事な讀み換へと言ふべきではなからうか。

 2樂章アンダンテ・ソステヌートも節度ある早めのテンポで始まるが、すぐにテンポが落ちる。歌ひこまれ、ほの暗いオケの音色が試される。ティーレマンと共に、その歌に沈潛する内に、ブラームスの音の形を忘れて、時間の海にただよふやうだ。初老の男性でなければ書けない、甘さと辛さの入り交じつた囘想。突如破られる幻想。そして一層深い悔恨、失つてしまつた時間。だがその胸の痛みも、取り戻せぬが故に、思ひ出の中では甘い喜びでもある。さう、これはヴァグナー的な情念とは對極的な、薄暮の中で演じられる優しい夢……。3樂章ではその夢は更に暗い歌に結晶する。演奏は、一層濃密に歌ふ。印象的なあのメロディーが、樂器から樂器へと受け渡され、中間部を經て、ホルンに戻る。

 まるで長い旅をしてきたかのやう。

 4樂章のあの不氣味な出だしは、この3樂章の本質的な暗さから來る、それをこんなに強く感じたのは今日が初めてだ。冒頭を遲く始めてフォルテからアレグロになるのは、これ又フルトヴェングラー流儀だが、アクセルとブレーキを同時に踏むやうな激情と逡巡の主部を丁寧に持ちこたへるのは、フルトヴェングラーの奔放とはやはり違ふ。だから、ヒロイックな第2主題に入つた時、音樂は、本當にさはやかな風が吹込むやうに明るくなるのだ。

 ティーレマンの演奏では、結末は寧ろロマンティックではない。これは裏返された《英雄の生涯》なのだ。虚飾を極力拜して誠實に生きて來た人間の自敍傳だ。その多くの時間は、なるほど、詠歎と悔恨に費やされた。だが、今、主題が薄暮の中で囘想される時、それはロマン派の夢ではない。トリスタンの結尾ともブルックナー第9のアダージョフィナーレとも違ふ。こゝには凝縮された人生の味がある。弦のトレモロに導かれた管樂器の終止和音が、交響曲の終結としての確かな手應への中で曲を閉ぢる。(この項續く)

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