聖なる奇跡、再び――ティーレマンのブルックナー (1)(2012年11月01日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年11月01日より)
ヴァグナー:トリスタンとイゾルデ「前奏曲と愛の死」/ブルックナー交響曲第7番ホ長調
クリスティアン・ティーレマン指揮 ドレスデンシュターツカペレ(10月26日サントリーホール)
こんなに美しいといふことがあつていゝのだらうか?
美しいといふことが極みを超えれば、それは喜びや幸福といふよりも、美の鞭にしたゝかに打たれる、一種の精神的な限界への挑戰になる。今夜のティーレマンとドレスデンシュターツカペレは、そのやうな音樂の限界に達してゐた。
來日の度に、公演最後にブルックナーを持つてきて、こゝで己の眞價を問うてきたティーレマン。ミュンヘンフィルとの第5交響曲、第8交響曲に續き、ドレスデンシュターツカペレとの初來日では、第7交響曲である。しかし、5番、8番の時とは違ひ、1晩1曲ではなく、前プログラムにヴァグナーのトリスタンが入る。ドイツ在住の城所孝吉氏によると、9月1日のドレスデン就任コンサートでの《第7》が、ティーレマンらしからぬ淀みないテンポでの明るい演奏だつたといふ事で、その爲かとも思はれたが、實際に聽いた今日のブルックナーは「輕快」どころか、ゆつたりとしたテンポ、特に第1,第2樂章は、沒頭する程にテンポが遲くなる、あのティーレマン時間の、限りない「豐饒の海」だつた。信頼の於ける城所氏の印象に間違ひがあるとは思はれないから、全歐から聽衆が集つての就任コンサートでは、ティーレマンは、祝祭風の演奏をした、或いは限界への挑戰ではなく、音樂による挨拶をした、といふことであらうか。
ならば、東京の聽衆こそさいはひだ、今日のティーレマンこそは、自身の限界に挑戰し、オーケストラと共に音樂に沒入する忘我、忘我の沈潛へと音樂を誘ひ、ブルックナーと深い交歡の時間を味はひ盡くしてくれてゐたのだから。
前プロのトリスタンも勿論歴史的名演だ。《前奏曲》の強く大き過ぎる構へにはやゝ違和感があるが、《愛の死》が極限的なソットヴォーチェとスローテンポで陶醉を内側に内側に確かめる法悦の時間、そして曲尾ぎりぎりになつて、ふわりと音樂がクレッシェンドしてゆき會場が波のやうに搖れるあのエクスタシーは、比類ない。休憩中の會場では、この一曲でもう充分だといふ聲さへあちこちで聽かれた程だつた。
そして休憩後、ティーレマンが再び登場し、會場が鎭まる。緊張した靜寂――第1樂章が始まる。
だが……。
それは本當に始まつたのだつたか? 弦のトレモロが微かに空氣を振はせる。殆どきこえないほど微かな震へだ。チェリビダッケのやうな表現意欲に滿ちた意味深いピアニッシシモではない。空氣の美しい震へである。その震へに導かれ、チェロからきれいな湧き水のやうに、メロディーがゆつたりと流れ出す。如何にも自然だ。自然だが淡泊なのではない。實に豐かに滿されてゐる。
歌つてゐる。本當に豐かな歌だ。だが歌ひ込んでゐるのではない。それは留めやうもなく、流れてゆく。意味も思ひも含まない。とにかく比類なく美しい流れが、流れてゆく。
ティーレマンが歌つてゐるのではないやうだ。では、彼はオーケストラを歌はせてゐるのか。それとも、どうも違ふ。
彼らが歌はうとしてゐるのではなく、彼らを通じて無心の歌が流れ出してゐる。自然の風景が、一切自己など主張しないのに、彼らからまばゆいばかりに無限の色彩美が溢れてくるやうに。
さう、ティーレマンとオーケストラは、自ら歌ふのではなく、共に待つてゐるのだ。そして慈しむやうに眺めてゐるのだ。
だが何を? 彼らの音によつて歌が促され、會場の隅々までゆつたりと滲透してゆくのを。
それならば歌ふ主體は誰なのか?
おそらく誰の歌でもない。確かにそれはブルックナーの歌であり、オーケストラの團員が心を籠めて自分の歌に温めて、會場に解き放つたものではある。だが、個人的な歌ではない。自然が歌ふ歌を、ブルックナーが孤獨な靜かな時間の中で、神との對話を通じて寫し取つた、さういふ無垢な歌に、己の歌を歌はせるためには、歌ふ主體があつてはならない。だから、ティーレマンは待つのだ、ベートーヴェンやブラームス、ヴァグナーの場合と違ひ、ブルックナーの場合には。(この項續く)