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『ワーグナーと《指環》四部作』ジャン・クロード・ベルトン著・横山一雄訳(白水社文庫クセジュ)

 《ニーベルングの指環》四部作の簡潔な概説書である。

 《指環》を論じる事は、ある意味でトートロジーに近い。と言ふのも、《指輪》といふ作品は、その全てがあらゆる方向からなされた自己解説と言つていいものだからだ。歴史上の記念碑的な表現は、――旧新約聖書、法華経、論語、コーランからファウスト、カラマーゾフなどの近代藝術に至るまで――殆どの場合、巨大なエニグマである事自体が、作品のマグマの源泉である。テクストは決して解明され得ない。これらのテクストとの悪戦苦闘の膨大な痕跡が、人類の思想の歴史だ、さう言つてよからう。

 ところが、近代藝術史上最も巨大な記念碑である《指環》に関しては、逆の不安が、読む者、聴く者を襲ふ。この作品では、余りにも完璧に、作品が作品自身を解説してしまつてゐ、その前に立つた我々は、どこまでも受動的な享受者である他はないのではないか。なるほど、複雑を極め、企みの注ぎ込まれたテクストではある、が、この作品を紐解く事は、結局、作者が仕掛けた仕掛けに取り込まれる事に過ぎないのではないか。

 今の私に、この疑問に答へる資格はない。私の腰を入れての《指環》探索は始まつたばかりなのだから。が、このベルトンによる小さな概説書は、要領よく《指環》の梗概の役目を果たしながらも、同時に、《指環》の様々な剰余の可能性を指し示してゐる点で、《指環》を《指環》から解放する一冊たり得てゐる。

 周知のやうに、ワーグナーは、《指環》の構想をゲルマンの古代英雄伝説にとり、最初の構想はエッダや《ニーベルンゲンの歌》の前篇を換骨奪胎した台本として完成した。当初の題名は《ジークフリートの死》であり、今は《神々の黄昏》と題された最終作が、本来ワーグナーが書かうとしたドラマだつた。ところが、台本を完成させたワーグナーは、そこから作品の意味を遡行し、深めてゆく必要を感じ――正に《ジークフリートの死》が現にさうある事の「解説」行為こそが《指環》のテクストの拡張だつたのである――、それが《ジークフリート》《ワルキューレ》そしてその神話的起源といふべき《ラインの黄金》へと、台本は遡つて書き継がれていつた。かうして作品の主軸は、ジークフリートといふ英雄の死から、神々が――殊に世界神であるヴォータンが――どう世界を失ふのかにずれる事になる。

 要するに言語作品としての《指環》の完成自身が、自己の当初の意図への註釈だつた。

 一方で、この自ら完成した巨大な台本に対する音楽は、当然、《ラインの黄金》から作曲が進められたが、これ又、音楽史上類例のない程懇切丁寧な、音によるテクストの「解説」に他ならない。

 《指環》を論じようとするものは、それが概説書であれ批評であれ、さうした作者自身の周到な註釈とは別の登山口から、この作品に接近する努力を余儀なくされるのである。

 ベルトンの叙述は包括的で、開放的だ。

 一つ一つの着眼点には決着を付けようとせず、寧ろ、相互に関連する、ワーグナー及び《指環》のあらゆる「リンク」の外延を最大限に伸び広げながら、その広さの「予感」へと読者を導く。

 これは無論、概説書ゆゑの叙述の限界だ、一応さう言へる。が、賢明に選ばれた方針でもあるのである。《指環》のディテールが支へる作品の内奥は、音楽を聴く事を通じてしか明らかにならないとすれば、寧ろ、成立史やライトモチーフの分析、ヴォータン像などへの深読み、ショーペンハウアーニーチェを始め同時代思想との影響関係など、個々の主題に深入りする前に、全体のリンクが何を予感させるかといふ開放系で《指環》をとらへておく事が、どうしてもこの作の探訪には不可欠だからだ。

 さう見る時、ベルトンは決して凡庸な解説者ではない。
 
 ベルトンは音楽のみに偏りがちなアプローチを排し、多角的なアプローチをとる。作品の梗概を論じる部分も、単なるオペラの作品解説とは同日の談ではない「読み」の提示になつてゐる。ベルトンは、作品の全貌を、ヴォータンの主権への侵害の発生(ラインの黄金)、ヴォータンが神々と人間との間で心引き裂かれつつ没落する内的な循環のプロセス(ワルキューレ)、永遠の受刑者となるヴォータン(ジークフリート)として概括した上で、《神々の黄昏》のヴァルハラ炎上の終末をベルトンはかう述べる。

 かくてそれ自体歴史から生まれた神話の歴史的意味がその姿を現し始める。蛮族の侵入後のローマ帝国の衰退に、中世、宗教改革、ルネサンスが続く。異教の偶像はくつがえされ、古代世界から近代が出現したのである。

 史劇を棄てて神話を選択した《指環》の終末にローマの護民官を描いた処女作《リエンツィ》の残響を聴く、それだけならば珍しい聴き方ではない。が、それを「それ自体歴史から生まれた神話の歴史的意味」を見て取り、ワーグナーが「神話」を選択した事の歴史的な意味へと一気に筆を進めるベルトンの批評眼は鋭いといはねばならない。

 神話を選んだ《指環》が、何故よりによつてかうも極度に近代の臭気で一杯なのか。それはこの作品自体が、ワーグナーの歴史主義的な自覚によつて神話を選んだ、さうしたワーグナーの「行為のリンク」の「一コマ」だからだ、ベルトンが言つてゐるのは要するにさういふ「作品」の構造の暴露だからである。

 一方、本書の最も重大な限界は、共産主義への評価が甘い点である。一九八六年の書物であるにせよ、著者のイデオロギーで作品の理解が歪んでいい筈はない。なるほど、ワーグナーへのバクーニンの影響は直接的であり、《指環》の構想は資本主義批判から始まつてゐる。それはさうだが、同時に、もし《指環》に、同時代の左翼思潮による資本主義批判を根源的に乗り越えた、マルクス主義とは全く異質の力が備はつてゐなかつたならば、今日までこれ程この作品が問題的であり続ける事はなかつたらう。

 ベルトンもいふやうに、ワーグナーが汎ヨーロッパ的な栄光と神話中の人物として、バイロイトといふ聖域を主宰するに至つたその晩年以後、彼の藝術は、富裕層の贅沢な娯楽品であり続けた。その後の多くの音楽学者、思想家、演出家らが幾ら《指環》をマルクス主義に近づけやうが、アナーキズムに近づけやうが、富裕な観客は一向に怯まない。一方、貧しい者たちがワーグナーの音楽によつて革命に目覚める事も一度たりとてなかつた。アルベリヒによるニーベルンゲン族の搾取をどんな政治的に描かうと富裕層の良心が痛む事も、貧困層の憤激が政治に転化される事もなかつた。例へばナチス時代に、ドイツのナショナリズムの火に油を注ぐ事はあつても、コスモポリタニズムやコミュニズムの力になる事は一度もなかつた。ワーグナーの反ユダヤ主義が政治力に転化される事もなかつたし、イスラエル国家がワーグナーとナチスの記憶を結びつけてそれを忌避しようと、ユダヤ人達の中から熱狂的なワグネリアンを出す事を防ぐ事はできなかつた。

 音楽の力だけが、ワーグナーの作品から放射されてゐる。音楽の力に何らかの意味で魅了された者だけが、ワーグナーの上演を今日まで支へてきた。政治思想からワーグナーを深読みしたいなら、この厳然たる事実を直視しなければ、話は誤魔化しに終はる他ないであらう。

 かうして彼の素描した《指環》の諸相は、私を《指環》の感銘の「謎」に投げ返す。振り出しに戻つたやうに立ちはだかる《指環》の「謎」に、私は改めて茫然とする、私も又、《指環》に魅入られたその時から、《指環》といふ壮大な歴史の一つのリンクに組み込まれてしまつたのかと訝しみながら。(H28・12・15)

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