ニューヨーク日記(3日目・1)平成29年1月21日

 昨晩は午前1時に寝たのに5時前に目が覚めてしまつた。今回の訪問で一番重要なのは連日のコンサートの時間帯である20時から22時に睡魔に襲はれない事にある。睡眠の調整が少し難しい。今まで欧米や南洋への旅行でも時差ぼけは経験した事がないのだが、10日に渡る一人でのホテル暮しといふ事もあり、普段よりも神経質になつてゐるのは事実である。

 朝は近所の喫茶店でチーズ―バーガーセット。目のくらむやうな量のフライドポテトが出てきて参つたが、そんな事は最初からわかつてゐた筈である。日本では生活力のない私の日常を色々な人が支へてくれてゐるが、一人になるとやる事なす事、間抜けを重ねる事になりさうだ。

 古今集恋四を読了。渡航で数日途絶えた古典読書の再開である。源氏は先日若紫が終つたから、今日から末摘花だ。角川文庫の玉上琢也校註本2巻。

 海音寺潮五郎『孫子』読了。見事なものだ。兵法書『孫子』の著者については、後世の『史記』に列伝があるのに、肝心な呉氏春秋に記述がない為、孫子非実在説は存外根強い。が、海音寺の鮮やかな墨滴によつて蘇る孫子の躍動する人間像を読めば、これが小説的仮構とは信じられない程こなれてゐる。孫子の実在非実在に関はらず、春秋時代の歴史小説として一級品。

 さて、昨日書き残した事。Carnegiehallに特に思ひ入れがある訳ではないがやはり感慨はある。ブルーノ・ワルターやトスカニーニ、ホロヴィッツ、ルービンシュタインらのポートレートがあるのは当然として、展示室に飾られてゐるのがチャイコフスキーやマーラーのコンサートのプログラムとなれば、平凡な感想だが、歴史の重みを感じないわけにはゆかない。ヨーロッパに感じるそれとは又違ふ孤独で異質な何か。私自身が今ここにゐる事も含めた痛みのある感覚が残る。ザルツブルクでモーツァルトの生家を見ても、ワーグナー自身が建設したバイロイトを見ても、それはいはばそこに憩つてゐて、私もその静かな歴史の内に息づく事が出来る。が、ニューヨークの中心街のホテルで一人過ごしながら通ふカーネギーホールは私自身の孤独と相まつて、寧ろ、街からそつと隔たつた場所でその「音」を一人守つてきたやうにも見えるのである。周囲の殺風景な喧噪の中に一人歴史建造物として残り、しかも、そこで今の「音」が奏でられてゐる不思議。

 昨日は、そのCarnegieへのバレンボイムのデビュー60年だつたといふ。60年前14才だつたバレンボイムはレオポルド・ストコフスキーの指揮でこのホールにデビューした。昨晩はコンサートが終つた直後に、その祝辞とバレンボイム自身の答礼があつた。

 その前、演奏が終つて私が拍手してゐると、丁度前の席の老婦人が耳に指を突つ込んでうるささうにするのに、私は気付いてゐた。最初は偶然かと思つたが、ボックス席は8人だし、私以外の客は先に帰つてゐたから、私の拍手がうるさいといふ抗議の意味で、この婦人は私が後方にゐる左耳にだけ指を突つ込んで耳を塞いでゐるのである。私の拍手が人並み外れて巨大なわけでもない。大体ボックス席は第一ヴァイオリンの真上で、ティンパニも近い。この婦人がコンサートの最中轟くティンパニに耳を塞いでゐたのを私は見てゐない。これは要するに人種差別的な侮蔑の表現なのであらう。白人の同じclassと見える人間の拍手にまさか耳栓をこれ見よがしになど、この上品ぶつた老女がする筈がない。

 興覚めな思ひをしながらバレンボイムの答礼を聴いてゐると、彼はこんな事を話してゐる。(不確かな英語力の上記憶で書いてゐるから間違ひがあると思ふが大意といふ事で容赦頂きたい。)

 「カーネギーホールは音楽によつて人の心を一つにします。直前まで別の場所にゐた異なつた職業、違つた世界、違つた人種の人達がここに集ひますが、ここでは人々は一つのコミュニティーとなるのです。それがこのホールの偉大さなのです……」

 さうして私が拍手をすると、この老女は耳栓をして、東洋から来た私の心の中のコミュニティーをぶち壊しにして見せる。

 滑稽な事に横にゐる夫の左耳には耳栓どころか補聴器が付いてゐる。聞こえ過ぎる老妻に聞こえない老夫――東洋人への全く意味のない蔑視――バレンボイムによるカーネギーホールといふ共同体への賛辞。……

 バレンボイムの演説は最後にアメリカの使命を語つてゐた。

 「アメリカは世界の文化、創造の最先端であり続けた、これからもさうあるべきです。異質なものを受け入れ、様々な違ひに寛容である事、その事によつてこそアメリカはgreatになるべきなのです」

 この「great」に聴衆の一部から一瞬笑ひがどよめきかけたが、すぐに盛大な拍手にかき消された。

 勿論、バレンボイムが演説の最後をわざわざ「great」なアメリカでしめたのは直前のトランプ大統領の演説をひねつたジョークだつたらう。私は国民性の偉大さといふ神話を信じるが、バレンボイムはさうではない。彼は余りにも多くの「国境が齎す悲劇」を体験してきた。異質性を受け入れるアメリカのアイデンティティへの称賛は本心であつても、それを「great」と表現するとなると話は違ふ筈だ。が、聴衆はこれを真に受けた。ジョークが通じなかつたのではなく、ジョークとして受け取りたくなかつたのであらう。別にそれが良いわけでも悪いわけでもない。さういふ揺らぎの中で、ブルックナー全曲演奏といふ最もアメリカや大統領演説から遠い世界がニューヨークの中心で毎日奏でられ、人々はこれを心から楽しんでゐるやうだ。

 日本にゐると単細胞な左やマスコミに毒されて、多くの人が単純で極端な議論に走り勝ちに見える。世界情勢などどうでもいい、もう少し読書と思索と静かな会話を大切にするところから日本の保守を始めたらどうか。

 国、一人に興る。私は文業の孤独に還りつつ、期待しながらその一人を待つてゐる。

Share
秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。