ニューヨーク日記(5日目・2) 平成29年1月23日

 訪米以来曇りで持つてゐたが今日のNew Yorkは初めての寒さと雨。

 今日はブルックナーの第4交響曲である。間もなく出掛けるが、聴く前に覚書を書いておきたい。

 そもそもブルックナーの交響曲をチクルスで演奏し、聴く意味はどこにあるのか。

 ベートーヴェンのチクルスなら意味は分かる。それはベートーヴェンの自己発見の軌跡であり、又、交響曲といふジャンルを確立し、彼の仕方で極限までそれを完成させるといふそれ自体完結した一つの物語だからである。勿論一曲毎に作曲してゐた時のベートーヴェンがそんな事を考へてゐた筈はない。が、彼こそは同時代のゲーテが「これからの作家は全集を書くだらう」と言つた意味での、――どんな文学者よりも適切な――自己発見と成長を存在自体に含意した全集作家であつた。

 ハイドンの初期シンフォニアからロンドンセットに至る業績を俯瞰しようといふやうな意味ではなく、そのやうな意味でのシンフォニーチクルスを――それも短期間に集中して聴く意味があるとすれば、ベートーヴェン以外ではマーラーといふ事になるだらう。彼の場合は、ベートーヴェンの後に、ヴァグナー、ブルックナー、ブラームスが存在した上での彼の仕事であつて、交響曲の作曲は音楽史の中での自己実現であつたと共に、人生の軌跡をそこに聴くといふ意味で、シンフォニーチクルスはやはり一つの旅になる。

 ではブルックナーの場合は?

 彼のやうに、特に四番以降の交響曲のやうに、一曲だけで一つの大きな完成であるやうなものを、九曲立て続けに演奏する意味、聴く意味はあるのか?

 かつてフルトヴェングラーは、ベートーヴェンの第九交響曲をシーズンのクライマックスか最終日に演奏したものだが、ブルックナーの交響曲も又――チェリビダッケやティーレマンの場合のやうに――一シーズンの最重要演目として一曲取り上げる、いはば交響曲といふ様式における最終解答のやうな音楽ではないのか?

 さう、確かにさうに違ひない。

 が、さうであると同時に、全てがプロセスでもあるのがブルックナーのユニークさなのである。

 それは、ベートーヴェンやマーラーの場合のやうな動的な成長ではない。しかし確かにそれは成長だ。例へばブラームスのやうに第一交響曲で完成に達した人のヴァリエーションとしての四曲とは違ひ、一曲毎に、音楽的にも人間的に成長し続けた記録である。彼が、ベートーヴェンやマーラーとは異なり、自由な様式への模索や自意識の格闘といふやうな近代的な意味での藝術家でなかつたゆゑに、寧ろこれだけ自己自身のみに集中し、自己の素質の外に出ずに済んだともいへる。かうした自己表現の狭い道のみを追求し続けた三〇年の精神の軌跡は、他にない。

 その成長のプロセスの中でとりわけ注目されるのが、実は第四交響曲である。

 この作品は一八七四年に初稿として完成された後、一八七八年/八〇年に極端な改作が施されたものが現行版である。

 この作品で、彼は我々の知る「ブルックナー」に一挙に到達するのだが、その事の得失を最も露骨に示してゐるのが、この作品なのである。端的に言つて、ここでのブルックナーは三番までとは比較にならぬ分り易いシンプルな語法と構造に到達してゐる。それがこの作品の人気の秘密でもあるだらう。が、その結果、ここまでの作品が示す、魂そのものの叫び、無垢な傷、心底から溢れる祈り、悪戦苦闘そのものが生み出す音楽的な充実は消え、音楽そのものも平板になつてしまつたのではないのか。

 少なくともスコアから受ける印象はさうである。

 冒頭の有名な主題からして五度関係とその反転である四度関係で構成され、全曲がこの和声的な基礎の延長上に作られる。最もシンプルな音程と言つていい。五度音程と並び、第一主題部で既に出るのが上行下行の音階進行であり、これ又全曲の基礎となる。五度と音階進行の組合せといふのは殆どこれ以上考へられないシンプルな構成素材だ。これに二+三のブルックナーリズムと付点が組み合はされたものだけで全四楽章の主要主題、いや細部さへもが構築されてゐる。この単純さはベートーヴェンの第五交響曲以外に、多分比肩するものがない。しかも演奏時間はほぼ倍にわたる。

 表面的に見れば、これはブルックナー自身が習作時代から五曲の交響曲を作曲して来た一連の悪戦苦闘から一度退却したと受け取れなくもない。退却といふのは勿論間違ひで、実際には、ここまで獲得してきたものを一度整理して最も明澄な所まで彼自身の技法と歌とを調律し直したといふ所であらうか。

 とりわけ改作による平明さの志向は、第三交響曲の初演の悲惨な失敗――演奏終了後会場には数十人の聴衆しか残つてをらず、ウィーンフィルの団員も瞬間に会場から姿を消し、ブルックナーは一年以上作曲できなくなる程の打撃を受けた――と関係あるだらう。

 その意味で、スコア上のこの平明さが、実際に音楽的にどれだけの内的な充実を持つてゐるのか。第三番と第五番――これこそはブルックナー全作品中で最も晦渋なバロック的建造物の極致――を繋ぐブリッジとして独自の成長過程を実現してゐるのか、それとも一種の退避的な後退と見るべきなのか。

 今回のCarnegieでのチクルスでは、バレンボイムの演奏が、とりわけ《第三》で大変な高みに達してゐただけに、第四のスコアをどの位の高さ、大きさ、深さで満たせるか、注目したい。

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。