ニューヨーク日記(5日目・3) 平成29年1月23日
ブルックナーチクルス第四夜からたつた今帰宅した。
残念ながら今日の出来はよくなかつた。前半のモーツァルト〈戴冠式〉はよかつたが、ブルックナーは期待外れだ。昨年のサントリーでの4番は特によい演奏だつたといふ記憶があるだけに期待したのだが……。雨と一人ぼつちの生活が続いた為、私の精神状態がよくなくてさう感じただけか。さういふ事でもあるまい。今日のバレンボイムは偶に彼が見せるやうなあからさまな「興味喪失」状態ではなく、努力はしてゐるのだが、どこかで集中力に欠けるといふ所だらうか。
全体に金管の音型がもやつく。弦と溶け合ふといふよりもギリギリのところでバランスの調整をしないまま舞台に乗せてゐる感じがする。雨の為の湿度が影響してゐるかもしれない。古いホールで、空調などあるまい。今日は私のボックス席では演奏中、外の職員の話声や遠慮会釈ない大きな咳が聞こえて驚いたが、さういふホールに湿度調整の設備がある訳はない。が、演奏の努力で解決できる問題ではあるだらう。全体にさういふ微妙な調整と気合にどこか欠けた演奏会だつた。音楽への粘り、執着がどことなくないのである。
例へば4楽章のコーダ(曲の終り)。弦の刻み乗つてホルンが主題を静かに繰り返しながら徐々に高潮してゆくのだが、この弦の刻みのテンポが微妙にだが安定しない。安定しない事を今日のバレンボイムは許してゐる。ダイナミズムの微調整も投げてゐる。だから、その先でクレッシェンドに入る、和声的にも一番感動する「さび」の部分でアンサンブルが大きく乱れたりするのである。これは明らかな緩みであらう。バレンボイムの指揮では驚くやうなアンサンブルの乱れはしばしば生じる。何しろ難しい箇所でわざと拍子を取らないやうな事を平気でするのだから。しかしそれは音楽的な緊張を増したり自発性を促す中で生じる不可抗力としてのミスで、あへて言へばさうしたミスは音楽表現の一部である。が、今日のは違ふ。緊張を欠いたミスだと感じられる。
聴衆は相変らずスタンディングオーベーションとブラヴォーを浴びせてゐたが、やはり音楽の感動の質が低い事には気付いてゐたやうに思ふ。カーテンコールが3度しかないまま拍手がやんでしまひ、そこにバレンボイムが登場して拍手が再び起きた。マイナーな二番や三番では生じなかつた事である。
さういふ日があるのも音楽の一部であり人生の一部であらう。
明日の第五はバレンボイムの十八番だ。
昨年の日本公演ではよりによつて一番不入り、それもサントリーホールが半分空席になるといふスキャンダラスな「がら空き公演」だつた。明日は満場の聴衆と共に、彼のベストで五番の神の調べをぜひ聴いてみたいものである。