ニューヨーク日記(6日目・2) 平成29年1月24日


Photo picked from Daniel Barenboim Facebook

 バレンボイムの公演5日目、ブルックナー第5交響曲を聴いて今帰宅した。

 これは神の恩寵といふべき演奏会、感動に言葉もない。

 ブルックナーの人生は、特に後半生、概して幸福なものではなかつたが、この曲の作曲当時はとりわけひどい状態だつた。ウィーンでの生活が経済的にも社会的に不如意だつた上、作曲を終へる直前には、第3交響曲の初演で観客が皆途中で帰つて終演時には20人しかゐなかつたといふ悲惨な経験をする。

 しかしこの作品の神の凝視、祈りとしての音楽の純度、作曲に投じられた技の極致、バッハの巨大なオルガンフーガとベートーヴェンの第九を融合したかのやうな超越的な法悦、これをその生活苦の中で、人生の悲惨の中で、どうやつてこの人は達成したのか。

 近代藝術の天才の仕事といふよりは神の恩寵を受けた神秘家の奇跡に近いといふべきだらう。

 全く同時期にワーグナーが〈指環〉を、ブラームスが第一交響曲を完成させるが、これら3つの作品を並べてみるがいい。人は〈指環〉に人類史を通じての最大級の天才を、ブラームスに偉大な名匠を見るだらうが、ブルックナーの第5に本当に感動した時には、神の恩寵をじかに感じるのであつて、作者の事など思ひ付きもしないに違ひない。痛々しい事にブルックナー自身は生前この曲を聴く事ができなかつたが、もし今夜のバレンボイムの指揮でこの曲を聴いたなら、彼はこれを作曲したのは決して自分ではないといふだらう。神の恩寵が書かせた、他にどうしようがあるか、と。

 1楽章の神秘的な序奏が孤絶した魂の神への疑問のやうに捧げられると、突如、神の啓示のやうなコラールが天上に鳴り渡る。天使同士の会話、そして降臨によつて、救済と魂の葛藤のやうな主部が始まる。音楽は祈りと葛藤と目くるめくやうな高揚を繰り返す。低弦が深い官能の突き上げるやうな濃厚な歌を歌へば、金管は神の声の如く響き、木管が両者のフォルティシモを突き抜けて最強音で合の手を入れる生々しさはどうだらう。

 バレンボイムがどこをどう巧みに指揮したかを指摘する必要はない。彼は楽団員のただ中に立つて一緒に音楽をしてゐた。かういふ時のバレンボイムコンサートは他の追随を許さない自由と遊びと官能と法悦の怒涛となる。

 2楽章の第五部が楽天的過ぎたのが唯一の瑕瑾か。若き日のバレンボイム指揮シカゴ響のレコードのこの部分は多くの名盤中でも最高の出来を示してゐたが、今日の演奏ではあの深い共感は感じられなかつた。

 だが、それ以外は! ブルックナーのスケルツォをとりわけ得意とするバレンボイムの3楽章は絶好調だつたし、4楽章は力動性の極み、これだけ各パートが自在放題に自分の音楽をやりながら、フーガから主題構成から、全体の俯瞰性から全てが見事で、ただただ音の進行のしなやかでひたすらなら推進力と、響きの深み、深いところから放射される眩さに見とれるばかりである。演奏の効果は強烈極まるが外側から来るものではない。空疎さの全くない音楽的な意味に満ちた迫力が続く。

 最後は感動で居たたまれなくなる程の陶酔の十分間。コーダの巨大さは類を見ない。どつち道、最初から壮大なコーダをこの人は数分かけて更に大きく育ててゆく。どこまでも続く神の栄光の凱歌もつひに会場が持ちこたへられぬ程の巨大さ、強烈さに達し、どこまでも高まるクレッシェンドで会場は天国の眩さに包まれる。

 ホルン8、トランペット6、トロンボーン6、ティンパニ奏者は両翼に二人立たせて、会場を轟音で包む。

 指揮を終へたバレンボイムは答礼せずに楽団員に頭を垂れたりアイコンタクトをしながら指揮台に2分近く佇み、聴衆を振り返つての答礼も1分程受けてゐただらうか。この人の指揮は何十回聞いたか分らないが、これはかなり珍しい。

 1年前の2月14日、サントリーホールに両親を招き、我々夫婦と4人で聴いたのが、バレンボイム指揮のこの第五交響曲だつた。母をコンサートに誘ふ事や両親の為にチケットを用意する事はあつても、両親揃つて一緒のコンサート通ひは初めてだつた。これを機にコンサートに親を誘ひ出せるほどの時間が取れる人生にやつとなつたと思つた丁度一月後の3月14日、父は突如不帰の客となつたのだつた。

 父が天に上る時の音楽もこんな風に眩いものだつたであらうか。

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秘書室
文芸評論家・小川榮太郎秘書室です。