ニューヨーク日記(7日目・2) 平成29年1月25日
Photo picked from Daniel Barenboim Facebook
第6交響曲の夕べが終り、ホテルに戻つた。10時15分。稀にみる幸福なコンサートだつた。余りにも美しく、余りにも感動したので、まづそれを書きたくてホテルに戻つたのである。
幸福感で涙がこぼれる。
ブルックナーの第6交響曲がこんなに深く、美しく、流れの分り易く、その上度外れたクライマックスで酔はせてくれるなら、毎晩でもこの曲を聴いてゐたい。
昨晩の第5交響曲は、何といつてもチクルスのクライマックスであつて、バレンボイム程の人でもさうした重圧はあつたのであらう。極度の緊張と高揚の後の自由な遊びが、第6といふ曲に漲つてゐるのと同様に、バレンボイムのタクトに漲つてゐる、作曲家の開放感と指揮者のそれが完全に共鳴してゐる。これこそはチクルスで聴いて初めて体験できる事だらう。
それにしても何といふオーケストラにシュターツカペレベルリンを、バレンボイムは育てた事か。もう溜息と称賛しかない。
これは百人余からなる室内楽だ。全員が全く自由に、音楽の広々とした庭を逍遥してゐる。
バレンボイムは三番まで明らかに金管セッションを抑制してゐたが、第五で倍の編成で途轍もない音響を繰り広げた後、この曲は元のホルン4、トランペット、トロンボーン3に戻してはゐるが、前期とは違ひ、金管を全開にして、巨大な空間を作る。一楽章のコーダのリヴァイアサンの咆哮のやうな――毎晩ホールで配られるプログラムの楽曲解説でこの楽章の主題をさう説明してゐて、我が意を得た思ひがした。毎晩(ひどい英語力ながら音楽は専門だから大体わかるので)感服しながら読んでゐる。日本のそれよりずつといい。日本には優れた音楽学者が沢山ゐるのだからもつとしつかりしたものを作れと言ひたい。私だつて乞はれたらいいものを書きます――全奏で、もうどうしようもない強烈なパンチに顔がのけぞるやうな思ひがした。
しかしその強烈さはあくまで極めて音楽的な充実であるのだ。金管が幾ら咆哮しても弦が全く消えない。それどころではない、木管さへ消えないのである。この全体の響きの融合の味はひは未聞のものだ。チェリビダッケの全盛期は透明感を出す為に運動性や自発性が犠牲になつてゐた、あれは見事なものだつたが、バレンボイムのは、ああいふ倍音まで調整しての透明感ではない。ショルティのブルックナーは生で聴いてゐるが完全にブラスバンド交響曲になつてしまつてゐたが、あれよりも更に豊かに響く金管が他のパートを消さないのである。しかも自在なダンスのやうにそれぞれのパートが躍動して自分の歌を楽しんでゐる様はどうだらう。
しかもオケの達成が未聞に高度なだけでなく、彼らの歌の深さと音楽的な意味に溢れてゐる事!
第二楽章がどこといつて格別な事をしてゐないのにこんなに清潔な歌に溢れ、心からの慟哭、心からの愉悦を渡り歩いてゆく、しかも流れのよさ、音楽の論理の運びが目に見えるやうでゐて、(カラヤンのやうに)流れてしまはずにしつかりと音楽的意味の味はひ深い手ごたへがある。子供の邪念ない夢のやうな第二主題の後に、まるで突如として葬送行進曲が流れる。この無垢な夢の埋葬は極めて深刻な音楽劇だが、バレンボイムは圧倒的な持続感覚で両者をつなぎながら、夢と葬送が決して別の現象ではなく、人生の本質だといふ事を示してゐた。スケルツォの愉しさはいふを待たない。4楽章、もう書く事なし! きらびやかな愉悦から巨大な一楽章のリヴァイアサン主題の回想へと転じる曲の末尾の凄さと来たら、もうどうとでもなれといふ感じ。
聴衆の熱狂は昨日と同様。
それにしても最も有名な第4交響曲の全くの低調は何だつたのだらうと思つてふと気づいた事がある。ブルックナーで一番の有名曲だけに音楽を余り知らない聴衆が多かつたのではないか。聴衆の咳や雑音がひどいのは毎度だが、あの日は桁外れだつた上に、5番を聴きながら気付いたが、何とも会場の「気」が特にそはそは落ち着かなかつたのである。微妙だが確かな「気」の違ひがあつた。終演後バレンボイムが2度目のカーテンコールで袖に引込んだだけでオケが起立してゐるのに聴衆の拍手が消えかけた、要するにそれだけの客だつたとも言へるし、実際演奏も低調だつた訳である。それは点数を付ければ90点の出来だつたかもしれない。今日が93点かも知れない。しかし藝術における圧倒的なものは、この最後の一呼吸の微妙さがあるかないかの積み重ねで決まる。
今日、このマイナーな第六交響曲に聴衆がどれだけ熱中し、終演後熱狂してゐたか。
さてもういいだらう。腹が減つた、深夜までやつてゐる店で日本酒でもひつかけてこよう。