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ザルツブルク日記#5 2017年4月16日(2)

《ワルキューレ》の台本を読み終へた。親しんできた作品だが、改めて激しい感動を禁じ得ないでゐる。音楽なしでこんなに感動してしまつていいのかといふ程。……

最近纏めてシェイクスピアを読んだが、音楽抜きにレーゼドラマとして見てもワグナーはある意味でシェイクスピア以上の仕事を《指環》でしたとさへ言ひたい程、この仕事は言葉の劇としても、思想劇としても圧巻だ。ワグナーについてはその反ユダヤ主義や、財政や人格上の如何はしさ、またニーチェのワグナー批判への一知半解な賛同によつて、どうしてもストレートに絶賛したくない空気がヨーロッパの知識人伝統に一貫してあるが、全く下らない話である。地球人類数千年の文明史の中でも同格の人間がごく僅かしかゐない程の天才だと私は思ふ。

ところで、《指環》は読む台本としては偉大な作品だが、芝居として上演するには向いてゐない。ここが面白い。言葉による演劇作品なのに芝居にするのは難しいし面白くならない。が、その言葉をワグナー自身が音楽化したら、他に類を見ない最高のオペラになる。

ワグナーは自作の演劇作品に自ら深く感動し、台本に改めてほれ込んで音楽を付けてゐる。彼の中に二人の巨人が住んでゐるのだ、偉大な文学者と偉大な作曲家と。しかも彼は又、史上最も優れた指揮者の一人だつた事は、その著述や記録から充分想像される。(ワグナーは、今のティーレマンの地位――ドレスデン州立歌劇場の音楽監督でもあつたが、革命の煽動家になつて職を失ひ亡命したのである。)

《ワルキューレ》はあらゆる矛盾の劇だ。神々の主神であるヴォータンが神々の終焉を決断する。神々よりも神の末裔である人間に共感する。共感するのにその愛は禁じられてゐる。最も自由な筈の世界の支配神が、かつて結んだ指環を巡る契約と、妻の難詰に縛られ、自らの奴隷となる。彼が自分を指環を巡る契約から自由にしようとして作り出す勇士たちは結局、彼の奴隷でしかない。彼を自由にする筋書をなぞる奴隷によつては、彼は決して自由にはなれない、この事が彼を追ひ積める。《ワルキューレ》はこの彼の窮状から始まる。

「反吐がでる程だ、私が働く全てにいつも自分の影ばかりを見出すのは。
私が憧れてやまない私自身とは別の存在――それがどうしても見えてこない! 自由な男は自らの手で自らを創らねばならないからだ。ところが私が捏ねて作るのはいつも私の下僕ばかりだつた!」

かうして彼は自ら育んだジークムントさへ、ヴォータンの神聖なる剣―ノートゥング―に守られてゐるに過ぎない事に絶望する。彼が必要とするのは、味方として作つた息子ではなく、敵にして味方、彼自身に反逆する事を通じて彼の隠された意図を実現してしまふ完全に自立した他者なのである。

それは次の《ジークフリート》に登場するジークムントの息子、ジークフリートの事なのだが、しかし……。ジークムントの方が与へられてゐる科白や役どころは、ジークフリートよりも遥かに英雄的であり、実際、ジークムントは決してヴォータンの下僕ではない。それどころか、ブリュンヒルデとジークムントといふ神々への反逆者が、ヴォータンの禁じられた愛を代行し、反逆によつて、片方は死に、片方は処罰される。この二人の犠牲によりジークフリートが生れ、それこそはヴォータンの「敵にして味方」であり、かつヴォータンを打ち倒して前に進む者となるのである。

つまりかういふ事だ、ヴォータンが、「敵にして味方」が出現しなかつた事を、ブリュンヒルデの前で強烈に嘆いてみせた時、ブリュンヒルデの中の父ヴォータンへの絶対の愛が、彼女をして「敵にして味方」にならせ、自らを滅ぼしてでも父の敵になる道を選ばせたのである。

ブリュンヒルデがヴォータンの意志に反してジークムントの味方になつた為、ヴォータンはブリュンヒルデを罰する。彼女から神聖を抜き取り、彼女を眠らせ、眠りを破つた男の物にするといふ罰だが、この、最愛の娘への罰は、ヴォータンの自己処罰であり、ヴォータンの自己愛でもある。

《ヴァルキューレ》末尾の有名なヴォータンからブリュンヒルデへの告別の音楽――同時にヴォータンの聴衆への告別の歌でもある――が、あれ程までに感動的なのは、最も愛する者を最も過酷に罰する事を通じて愛を確認する――この矛盾こそが、愛の純粋を守る最も確かな方法だからだ。

私たちは、妥協や欲望に過ぎないものを、どれ程、愛の名の下に自ら許して生きてゐる事だらう。愛してゐるのではない、淋しいから一緒につるんでゐるだけではないのか。愛ではなく性欲ではないのか。別れるのが面倒なのを愛しあつてゐる事にしてゐるだけではないのか。

絶対に愛する者だからこそ、過酷に罰し、永遠に別れねばならぬ、それでも愛は益々燃え盛る時に、それだけが愛の純粋さを保証する――ここには何と揺るぎない真実の愛の姿が刻印されてゐる事か。

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