大植英次指揮ハノーファーフィルハーモニー管弦樂團 6月27日、28日 於サントリーホール(1)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年07月18日より)
繁忙と心身の疲れに紛れ、すつかり出し遲れの證文になつてしまつたが、とにかくやうやく仕上げたので、掲載する。繼續して讀んで下さつてゐる讀者には、御無沙汰、まことに申し譯ない次第である。近々、名曲の名盤に關するかなり本格的なエセーを、斷續的に連載しようかと思つてゐるので、御期待下さい。
前半期を終了してみて、今年の東京のコンサートは、例年になく低調との印象を拭ひ難い。昨年、一昨年のベストコンサートの記事を參照いたゞければありがたいが、それに較べると、今日までの處、私の通つた公演の中では、昨年末のドゥダメルの來日公演以後、存分に滿足のゆく演奏會は、皆無である。
心に渇きを覺える最中、今日の大植の指揮には期待してゐたが、殘念ながら感銘は薄かつた。私の最近の心が、亂れ、渇き、音樂を素通りしてしまふから、退屈を覺えるといふ譯なのか。だが、心が亂れ、渇いてゐればこそ、音樂は荒廢に沈み、片意地になつた心に注ぐ慈雨であつていゝはずだらう。事實、大植の指揮を聽く前に、私は移動中の車で、東名高速の車窓を眺めながら、チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルのブルックナーの《第9》のEMI盤を久しぶりに聽き、心身の隨まで滲透する感動に、身も世もない程もみくちやにされたばかりである。
話は逆なのだ、本當にいゝ演奏會を聽いた後では、レコードなど手に取りたくもなくなるものなのである。眞のコンサート體驗は、無論、ホールの音響の體驗ではない。音の壓倒的な實在、音に關はる作曲家と奏者と聽衆との間で睦み交はされる精神的な勞作の、濃縮された時間の經驗である。時間が精神的な勞作の經過そのものとして味ははれるやうな、音の推移がそのまゝ時間となつて私の意識と殆ど分ち難い境界まで滲透してくるやうな音樂會を經驗したら、その後では、たとひフルトヴェングラーだらうが、トスカニーニだらうが、レコードといふ媒體そのものの、贋物性と粗雜さが、とても、音樂の體驗とは似ても似つかぬものゝやうにしか感じられず、少くとも、暫くの間、レコードといふ媒體そのものが、生理的に受け容れ難くなる。
いつも書くが、近年では、東京で上演されたティーレマンのブルックナーやバレンボイムの《トリスタン》が、正にさうであつた。暫く、他の音樂會も上の空になり、レコードなどはまるで無意味な「音の罐詰」で、とても耳にする氣がしなかつたものだ。原稿を書く上での比較の爲に、フルトヴェングラーの《トリスタン》を聽き直すなどといふ事でさへ、自分の身體の隅々まで滲透してゐるあの生の《トリスタン》の時間を毀してしまひさうで、まるで食指が動かなかつたものだ。
だが、あれももう一昨年の事なのか! 人生とは、何と芒々として、過ぎ去りゆくものである事か。あの秋、私は、バレンボイムとティーレマンの音を追掛けながら、家に歸ると原稿をひたすら書き續けるといふ生活をしてゐたものだつた。彼等の生演奏は、『カラマーゾフ』を讀むといふ體驗、『ツァラトゥストラ』を讀むといふ體驗、『國家』を讀むといふ體驗、『道徳と宗教の二源泉』を讀むといふ體驗……さうした最高度に叡智的な時間、人生に於ける最も濃密な時間の經驗――それら全ての至福を忘れさせてしまふ程、濃密な、感情と知性との、何よりも心身全てを入れ揚げての、時間に關する體驗だつた。
……雜談はよさう。大植の二日間は、私に、かなり多くの事を考へさせた。初日のエグモントは、實に音樂的で品格も高い。期待は一氣に高まる。主部は大變遲いが、抑へられた表情の緻密な豐かさに不足せぬばかりでなく、リズムの推進に底力が溢れてゐる。先行きの豫感は充分といふ所であつた。プログラム第二曲は小菅を迎へてのベートーヴェンの第三コンチェルトである。小菅のピアノは、取り立てて私の耳朶を撃つ程の内容を持たないが、これは仕方がないのだらう。今の時代には、これでも、闊達で集中力の高い演奏だとして、多としなければならないのだらう。何しろ、先頃、立て續けに聽いたキーシン、ツィメルマン、ポリーニら、當代最高の“名ピアニスト”達のピアノに、全く滿足できない私なのだ。ピアノ演奏の思潮自體が變らない限り、ミニ・ポリーニと呼ぶ他ないやうな秀才ピアニストが、斯界の多數を占める状況は、暫く續くのであらう。
だが、問題は、何と言つて休憩を挾んだ後の、ベートーヴェンの《第7》である。熱演であるばかりでなく、丁寧な演奏なのに、私は、どうにも樂しめなかつた。序奏は品格もあり、くすんだ色彩の中にも清澄さはあつて、期待したが、主部に入つても音樂の柄が少しも大きくならない。心が伸び廣がる、あの、いゝベートーヴェンを聽いた時の豐かさに、一向につゝまれない。これでは困る。テンポは相變らず遲いが、それが原因ではあるまい。何も、かつて聽いたカルロス・クライバーやバレンボイムの時のやうに、快哉を叫びたくなるやうな壓倒的な推進力だけが、この曲の解釋の全てとは、思はない。クレンペラーやチェリビダッケの《第7》は、常識外れに遲いのに、居ても立つてもゐられないやうな昂揚は、――レコードで聽いてすら――やはりあるではないか。
要するに、前者は、大向うを唸らせる爲に、表層を突つ走つて虚假威しをしてゐる譯ではないのだし、後者は遲いテンポだから、音樂的にエネルギーが低い譯でもない。クライバーやバレンボイムの推進力は、音樂の足腰となる和聲進行への極度の鋭敏さによつて、一本調子な退屈さから免れて、豹のやうにしなやかな運動を示してゐたのだし、後者は、遲いテンポによつて、和聲やリズムや樂器法を擴大して示す事により、音樂に潛在してゐるあらゆるエネルギーを最大限にぶつけ合ひ、壯大な爆發を生んでゐる。
選ばれたテンポは、いはば結果に過ぎない。大植の演奏は、後者の行き方に近いが、音樂的な論理の追求といふ點でも、オーケストラの技術といふ點でも、充分に、その遲さを消化出來てゐない。ホールの鳴りがこもつてゐる。スコアの内側に眠つてゐる多樣なリズムを掘り起こさうとする解釋が、かへつて全體を塗りつぶして、響きを單調にしてしまふ。敢へて條件面で疑問を呈するが、大植が今囘採用した2管編成は、この行き方をするには、弱いのではあるまいか。管の音量、音壓、表出力の弱さが、演奏の足手まとひになつてゐたやうに、私には聞えた。
丁寧さが内的な感銘につながらないのは2樂章で一層はつきりした。歌が溢れない。琴線に觸れる豐かな切實さがない。勿論、違ふ感想もあるだらう。一緒に聽いた家内は2樂章が良かつたと言つてゐたし、全體にこの《第7》には、相應の感銘は受けたやうである。私は、自分が無感動にさほどこだはるつもりはない。たゞ、私は、今日の大植指揮の演奏に、音樂の論理――といふより心の生地――が、直かこちらに觸つてくるやうな聲が聽こえてこないのを、索漠と持て餘してゐただけだ。古樂奏法だらうが、二十世紀奏法だらうが、構はない。ベートーヴェンへの新鮮な驚きによつて、奏者らが恰も始めてのやうに、ベートーヴェンを辿り直す時、奏者らの聲によつて、音樂は、いはば本當の意味で受肉する。この時、奏者の肉聲とベートーヴェンの肉聲とは分ち難く、それは自ら歌ひ、又、歌はれるだらう。そして、聽き手の内部でも、それは演奏と分ち難い内なる聲により、力強く歌ひ、歌はれる事だらう。
無理に作られた昂揚や個性的な解釋には關心はない。ケンプやフィッシャーの自然なベートーヴェンは、今でも私の心の故郷である。彼らの作爲のない歌程、ベートーヴェンの音樂の切實なリアリティーに私を眞つ直ぐ導く演奏は、他に殆ど思ひ出せない。だが、私が自然な歌といふ時の、その自然とは、木々の緑一つとつてさへ無數の色彩と陰影とにふるへながら瑞々しく輝く、あの、表現力の無限を意味する。ベートーヴェンの音樂では、それは、恐らく、和聲進行による音樂的諸條件の千變萬化に、身體的に對處できるやうな精妙な能力によつて、始めて萬全に表現され得る。そしてその精妙さを生きるとは、獲得され直した自然の美の自由さを支へる嚴しさに打たれる事でもあるだらう。第2の自然としてのベートーヴェンの表出力とは、それが獲得され直した自然であるといふ意味で、感情の解放である以前に、遙かに倫理的なものだからである。ちなみに、この點に就ての、簡にして要を得た言及は、ヴァルター・リーツラー著『ベートーヴェン』(音樂の友社刊)に寄せられたフルトヴェングラーの序文であらうと私は思つてゐる。
さて、4樂章では、冒頭のリズムだけを獨立して扱ふ解釋が、耳を聳たせる。冒頭のみならず、展開部冒頭や再現冒頭、更にコーダの冒頭でさへ、この音型が再歸的に扱はれる場面では、必ず急ブレーキが掛かる。いはば、《運命》1樂章のタタタターのフルトヴェングラーの遣り方を、この4樂章に應用した形である。展開部で短調に轉じた所でのテンポダウンとの照應を圖つてであらうか。この音型に、4樂章の原動力の全てが掛つてゐるのだから、モットーとしての強調には、一定の根據はあるだらう。が、聽いた印象としては、巧くいつてゐない。音樂のエネルギーと論理に、混亂が生じる。リズムの疉み掛けが、強烈なダイナミズムを累乘的に引出してゆくといふ基本的な樂曲の設計に反して、せつかく蓄積されたエネルギーが、その都度振出しに戻り、一からやりなほすやうに聽こえる。仕切り直しで、聽き手の感情に隙間風が入つてしまふのである。
しかし、その贊否は別にすれば、この樂章でも、大植の演奏は、勢ひに任せた力演とは全く異なり、構造把握と内聲のリズムの周到な掘起こしに努めてゐた。オーケストラの強奏とリズムの亂舞の中で埋もれてしまひがちな内聲の旋律線を丁寧に辿つたり、主題をつないでゆくメロディーラインを大切にしたりといふ、音樂的な論理を大切にする行き方は、大植の矜持を示すもので、私は、その點には好感をもつ。
だが、それでも、やはり、その先に、何か、溢れてやまぬ氣韻生動が欲しい。音樂が自ら歌ひ出してとゞまらぬやうな寛やかな解放が欲しい。要するにプラスアルファが欲しい。それがどうしても見出せない《第7》であつたと思ふ。
同オケの音樂監督退任する記念公演の爲だらう、終演後の拍手を受ける大植は、客をそつちのけで感傷に耽つてゐるやうな素振が目立つ。せつかく、中身だけで勝負出來る音樂家なのだから、演歌歌手の御涙頂戴のやうな振舞ひは、痛くない腹を探られはしないだらうか。ファンとしてはやゝ危惧される所である。(この項續く)