アントニオ・パッパーノ指揮サンタチェチーリア管絃樂團/ラフマニノフ交響曲第2番他(2)(2011年07月26日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年07月26日より)
まづ、聽き始めて、驚いたのは音色だつた。イタリアのオケとは思へない暗く重い音、しかも音による思索で始まる。深い闇の氣配が音の背後に洩れ傳はる。あらゆる音が呼吸をしながら囁いてゐるやうな、或いはより大きな豫感に促されて躊躇しながら先を急ぐやうな序奏である。
主部に入れば、今度は歌の奔流だ。音樂は、しなやかな呼吸で天翔けるやうに歌はれ、歌は迸り續け、迸りは奏者らの心の昂揚のまゝ、輝く。まるで、波のうねりの中をしなやかにジャンプを繰返しながら泳ぐイルカのやうだ。確かにこの開放的な歌の喜びとなれば、これはイタリアのオーケストラらしいと言つてもいゝ。しかし、話を急いではいけない。こゝでの歌、それは、トスカニーニの演奏が、オペラアリアのやうな意味でよく歌ふといふのとは、明らかに違ふのである。(餘談を増やさないために括弧で括つたが、イタリアの指揮者、トスカニーニの後の人達はあの天性の豁達な歌、みんな歌はないですなあ。ジュリーニ、アバド、シノーポリ、ムーティ。良くも惡くも歌はない人達ばかりである。戰後の一時期、カナリアならぬイタリア人は、歌を忘れた時期があつたといふ事なのか。)パッパーノがオケと共に歌ふこの歌の輝きは、イタリアのオーケストラらしい屈託のない光、直情的な單純さとは、根柢的に質を異にする。高弦の艶やかで迸る歌は、低弦と金管の深く轟く暗い輝きに支へられてゐる。光が強くなればなる程、闇も深くなるやうに、咽ぶやうな歌は、多聲的に精妙な細部の處理によつて、奧行を深めてゐる。一元の光が眼を射らんばかりに溢れるトスカニーニの歌とは、違ふのである。
第2主題などでの感情の昂揚の素晴しさは名状し難い程だが、それは、この音樂の、不安定な情動や音樂の圭角、移り氣、躊躇、更に構造的な複雜さの全てを存分に考究しきる音樂的知性の強靱さに支へられてゐる。演奏のさうした多樣性が、相俟つて、この曲は、メロディーで聽かせる輕めの繼續曲から、《指環》に引けを取らない北歐神話の生ける交響と化す。私はラフマニノフについては、まるで知識がないが、彼はヴァグネリアンだつたのか、あるいは、この演奏が殊更ヴァグナーを意識させるといふ事なのか、この演奏の音のイメージに《指環》の影が付纏ふといふ印象を私はどうしても拭へない。特に展開部の複雜な主題勞作の場面では、まるで《指環》のやうに、複雜で暗い金管の咆哮に、私は、始めて聽いた時、殆ど茫然としてしまつた。第2樂章のスケルツォも、神話的な舞踊。そして3度くるトリオが毎囘大膽にメタモルフォーゼする樣が實に鮮やかだ。
しかしやはりパッパーノ指揮のこの曲の魅力は後半2つの樂章にあるだらう。3樂章の歌が切實な憧れを乘せて歌はれると、胸が奧から温くなる。この憧れはつかめない。つかめないのではなく、見えないのかもしれない。この抒情の張り裂けるやうな涙は、しかし又、何と清冽で、透明なのだらう。イタリアオペラのアリアとチャイコフスキーの、己を曝け出すやうな歌には、明らかな相同性があるが、ラフマニノフの歌はそれとは違ふやうである。殆ど通俗的な旋律、和聲と隣合せでゐながら、それは寧ろ、聽き手の情念を靜かな祈りへと導く。だが、それを導いてゐるのはラフマニノフなのか、パッパーノの、ほの暗い清潔な響きなのか。
そして4樂章。あの祝祭の強烈な第1主題と、長い第1主題部の間に挾まれた行進曲風のエピソード、そしてそのまゝ流れ込む第2主題。1樂章では展開部に複雜な主題勞作を見せたラフマニノフは、このフィナーレでは、以上の形を主題提示と展開風に2度繰返し、そのまゝコーダに入る。こゝでのパッパーノは、舞ふやうに鮮烈な第1主題で聽き手を嵐に卷き込み、その勢ひを緩めないまま第2主題の涯しない昂揚へと持込む。絶えず波打つやうにうねり續けるデュナーミクの變化は殆ど媚藥のやうだ。樂章後半、第2主題が大きなアーチで昂揚し續けた擧句、第1主題のリズムが戻り、強烈なアチェルランドの中、狂亂のコーダを迎へる。大地が鳴動し、天から閃光が振り注ぐ。そして音樂の狂亂は聽衆の熱狂的なブラヴォーへとバトンタッチ。
サンタチェチーリア管絃樂團をこゝまで育て、ラフマニノフのライヴ録音で、これだけの成果を上げるのは、最早最大級の巨匠でなければならぬ。その割にレコードが餘りに少な過ぎる。EMIはパッパーノの交響曲レパートリーの本格的なレコーディングに着手してもらひたいものである。レコードはやはり大切な音樂の媒體であり、老舖であるEMIが現代の、本當に歴史的基準に達してゐる演奏家による商業録音を成立させてゆく努力は、音樂文化の爲に不可缺だらう。その爲の、批評家(私と違ひ立場のある、呵々)、メディア、大手レコード會社の努力を是非求めたい。特に職業批評家の諸氏よ、かういふ「壓倒的な成果」に對しては、もつと聲高らかに宣傳に務められては如何でせうか?(この項了)