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エフゲニー・キーシンピアノリサイタル 4月26日於サントリーホール(2009年05月10日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年05月10日より)

セルゲイ・プロコフィエフ 《ロメオとジュリエット》組曲より。ピアノソナタ第8番變ロ長調《戰爭ソナタ》 フレデリック・ショパン 幻想ポロネーズ/マズルカより作品30-4、41-4、59-1/練習曲より作品10の1、2、3、4、12番。作品25より5、6、11番。

後半のショパンが斷然良かつた。こんなショパンがあるかといふ程感心して聽いた。前半のプロコフィエフは、この處かゝりきりだつた文藝批評の脱稿と稼業の多忙が重なつてゐた爲か沒頭できず、餘りいゝとは思へなかつた。だが、恐らく、私の疲勞だけが原因ではあるまい。 やはり、キーシンの今のピアニズムが、プロコフィエフには充分に適合してゐなかつた、さういふ事情もあつたのではないか。

最初の《ロメオとジュリエット》組曲は、管弦樂によるバレエ音樂のピアノ編曲版から、馴染のナンバーの拔萃である。プログラム冒頭にもつてくるには、大變な難曲だつたやうに思ふ。管弦樂の厚みと滑らかさに慣れた耳には、ピアノでそれを代行させる編曲の困難が、ピアニストの不器用に聽こえてしまひかねないからだ。このやうな音樂は、ピアニストの「癖」で聽かせるもので、純粹な音樂性や技術の精練によつて、必ずしも聽きばえのするものではない。プロコフィエフの音樂の辛辣な味には、奏者が、己の、人間としての體臭や癖を通じて聽かせてくれないと、聽き手の想像力を躍動させない何かがある。プロコフィエフの中には何か大きな缺落があり、彼の音樂は、概してその凹みの面白さで聽かせる音樂とでも言へるのではあるまいか。

キーシンの素直過ぎるピアノでは、さうした味が出ない。響きも、充分ホールに廣がるが、プロコフィエフには欲しいトゥッティの處理の多彩さがなく、絶えず、一樣に立派で美し過ぎる。この人のピアニズムは、基本的には、神童時代に決まつてしまつて變りはないやうに思ふ。その點、カラヤン歿後に表現主義的な音樂性を剥出しにする事で、すつかり大ヴァイオリニスに化けたアンネ=ゾフィー・ムターとは違ふ。よくも惡くも、今のところ、天才少年の音樂的純潔の延長上に歩まれた成熟であり、多彩さであり、大きさである。

ラフマニノフ、ホロヴィッツからリヒテル、ギレリス、ミケランジェリまで、ヴィルトオーゾ達は、ピアノといふ樂器の達人であるのと同じくらゐ、深刻な人間通でもあつた。この言ひ方に誇張があるのは承知してゐる。ある音樂評論家から、「彼の額には猫程の腦味噌しか詰つてゐないが、演奏は素晴しい。」と言はれたのは、ホロヴィッツである。だが、そのピアノ演奏は、たとひ彼の言語的知性が假に猫竝であつたとしても、音樂的な知性に於て、どのやうな言語も及ばない領域で、痛々しいまでに深刻な心理學者だつた事を證してゐる。ホロヴィッツの演奏は、感覺的なのではない。ピアノといふ樂器の神經の芯まで剥出しにされた音で、作曲者の魂に内側から潛る。歌つてゐるのは、恐らく、ピアノそのものであり、作曲家の祕密に對して暴露的に働くピアノの暴力性が、彼の演奏の異樣な興奮と、感傷の極致で得られるあの獨特な淨福感の正體なのである。
キーシンのプロコフィエフには、さうした意味で、何よりもピアニストの魔性がない。

ところが後半のショパンは、別人のやう。《幻想ポロネーズ》が始まつてすぐ、プロコフィエフの時とは、雲泥の差とさへ言ひたい程の濃密な雄辯と確信に滿ちた獨自の音彩の放射に、驚くやら、嬉しいやら。

何よりも音樂が大きい。晩年のショパンの、優しい枯渇と、柄の大きな音樂に纏め擧げようといふ努力とが、キーシンの中で、渾然と融け合つてゐる。流れは雄大で、しかし、管弦樂のやうにきらめく立體的な音像は、精妙且つ自在、まるでこの曲を始めて聽いたやうであつた。ポロネーズとしての性格が、これ以上ない程高らかに響くのに、それは、絶えず、得も云はれぬ哀しみに融けてゆく。昂揚の中に、衰弱の確かな鼓動が聞える。ショパンを聽くといふ經驗の豐かさと難しさとに、これ程陶醉させてくれた生演奏は始めてである。

後は、何を書いても同じ事だらうか。マズルカの一曲づつの性格の發見と、感傷のない、しかし、殆ど餘韻嫋々と言ふ耽溺振り。たつた3曲だつたのが、實に名殘惜しい。だが、ショパンのマズルカを聽いて、もつと聽きたい、いや、出來れば全曲聽いてみたいなどと思ふ事自體、私には始めての事である。印象的なマズルカとしては、よくも惡くもミケランジェリのショパンアルバムのものが眞つ先に私には思ひ出されるが、あれは全て、一樣にミケランジェリ節に塗りつぶされてゐて、一聽忘れ難いものではあつても、收録された6曲が聽ければ、殘りを聽く必要はないと言ふ種類の名演だつた。今日のキーシンは、一曲づつが、彫啄と歌の限りをつくしてゐながら、決して演奏者のマニエラの中で一樣にならず、それぞれの曲が、獨立した小宇宙を構成してゐる。一曲毎に、固有のドラマがあり、それぞれ全く別個な抒情と發見とがある。しかも奇を衒つた處が一つもない。至藝と言ふべきだらう。

しかし、その後演奏された練習曲拔萃に就ては、若干の留保がないではない。この人の技巧は、後半冱えを一層増して、大變安定してゐるし、極めて雄辯でもある。だが、ショパンが己の個性を發見したこれら若書きの作の病的に鋭い面を、シューマネスクな温暖さで和げてしまつてはゐなかつたらうか。昨年、紀尾井ホールで聽いたコンスタンチン・リフシッツ(7月1日於紀尾井ホール)の、ショパン練習曲集の批評を參照してもらへれば幸ひだが、キーシンは、リフシッツが刳り出してゐたショパンの病的な情念―或いは情念といふもの一切への強烈な不信―とは違ふ、よりドイツロマン派的な暖色系の包容力ある音樂に、ショパンを置き換へてしまふ。

あの輝かしい第1曲ハ長調の中に、リフシッツはどんなデリケートで壞れさうな危さを發見してゐたか。キーシンのピアノでは、このハ長調はどこまでも雄大で陰がなく、《革命》や《木枯し》も又、豫定調和的な短調の雄辯になつてしまふ。だが、これらの曲の情調は、おそらくさうしたものではない。ショパン自身が己を支へられない程の人生への不信と不安とに拮抗する音の世界を發見してゆく過程が、これらの音樂であるだらう。これは遠山一行氏の『ショパン』(講談社學術文庫)が私に啓示したショパン像である。讀者にはこの重要な批評作品は是非一度讀んでいたゞきたいが、さうした事は別にしても、實際、練習曲のショパンの音の異樣な輝きに、アンチ=ロマンと云ふべき自己崩壞への必死の抵抗があるのを聞き逃すのは、私には難しい。ショパンが何故ピアノと云ふ樂器のみに固執したのかを問ふ邊りの遠山氏の文章は美しいが、一言で要約すれば、氏は、人間の聲も管弦樂も、ショパンの歎きを受けるにはやはらか過ぎたのだと書いてゐる。キーシンのピアノは、多くのピアニストのやうな惰性のショパン風からは程遠い鮮度の高い音樂ではあつたものゝ、さうしたショパンの硬い毀れと云ふべき危機を、圓滿な響きの豐麗の中に解消してしまつてゐた。
一方、作品10の4番や25の5番のやうに、無窮動曲やスケルツォ風の曲想では、今までこんな味はひはなかつたと思ふ程、微妙な面白さがぎつしり詰つた演奏で、しかも時に極めて大膽なテンポや表情を取る。これは無類の面白さ。それだけに、拔萃ではなく全曲を聽いてキーシンのショパン像とまともに對決してみたいといふ意欲を覺えた。

それにしてもサントリーホールで3晩同じプログラムで滿席。コンサートの後には女性ファンによる花束贈呈が延々と續く。20人まで數へてゐたが後はばかばかしくなつて止めてしまつた。羨ましい。フルトヴェングラーなら、お氣に入りの娘に目を付けておき、後で團員を通じて「御食事に誘ふ」のが常だつたやうだが―そこから先はさすがに御自分で御誘ひになつたのでせうが―、キーシンは見るからに品行方正で、そのやうな事はなささうに見える。惜しい。尤もフルトヴェングラーも見るからに謹嚴さうで、女性に關して亂脈を極めた人には見えない。誰にせよ、夜の生活は外見からは分らないといふ事であらう。(この項了)

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