バレンボイムの偉大な指揮/アイーダの爲の《アイーダ》(最終回)(2009年09月18日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年09月18日より)
ミラノ・スカラ座來日公演(平成21年9月11日於NHKホール)
補論……
ゼフィレッリによる演出と舞臺は、腹一杯になる程、豪勢な御馳走だつた。その詳細に言及する能力は、私にはないが、堪能したといふだけで充分だといふ氣もする。これだけの目の贅澤は、記憶を辿つてもさうはないからだ。さうした豪華絢爛といふ事を別にしても、最近の舞臺・演出では、フィレンツェオペラのトゥーランドットとファルスタッフ、チューリヒ歌劇場の薔薇の騎士と竝ぶ、出色のものだ。勿論、ゼフィレッリのそれは、近年の演出家達とは異なり、カラヤン全盛期、西側世界――懷かしい言葉だ!――の經濟成長期に典型的な趣味を基調にしたものであるにせよ、今日の感覺に置き直す事に成功してゐたのに、脱帽した。趣味の古さは、全く感じさせない。寧ろ、若い演出家達も、それぞれの仕方で、繼承すべき大切な樣式と技術の域に達してゐたと云つて差し支へないだらう。
プログラムによると、ゼフィレッリは、巫女の長として、原作にない人物を作り出し、それに積極的な意味を持たせたと書いてゐる。ゼフィレッリによつてアクーメンと名附けられたこの巫女は、「核心的な場面に登場し、これら3人――アイーダ、ラダメス、アムネリス――の登場人物の、運命に操られた苦難の人生に寄り添ひ、守るために、天上のエネルギーの「注ぎ手」となる」。確かに、赤い鮮やかなドレスに身を纏つた女性が、要所で登場し、舞臺の視覺的な效果を引き締めてゐたので、何者なのか、氣になつてはゐた。が、彼が、過度な意味をこの役柄に與へようとしてゐたのだとすれば、それは、見當違ひだらう。
そもそも演出家自身の説明を讀まなければ意味を諒解出來ない演出には意味がないといふ點は差し置いても、この曲では、祭祀は、より大きなエジプトといふ古代國家そのものゝ齒車の一部に過ぎない。祭祀に、『マクベス』の魔女や、《指環》のライト・モチーフのやうに、演劇的又は音樂的に、決定的な指導動機の役割は、與へられてゐないのは、私が今更力説するまでもない。運命と戰つて、演劇の論理を主導するのは、このオペラでは、アイーダその人だ。アイーダはマクベスのやうに、運命に飜弄されて身を誤つたのでもなく、ジークフリートのやうに劍に掛けられた默契によつて英雄となつたのでもなく、自發的に、運命に飛込み、戀を選んで、死ぬのである。その彼女の上に、エネルギーの注ぎ手を設けるのは、創造的な讀みではなく、端的に誤讀である。
だが、實は、これは、ゼフィレッリへの批判ではない。さうした「誤讀」――當人も當然分つてゐる譯だ――から、舞臺の視覺的な魅力や新しさが生れるとすれば、それが、氏の舞臺人としての、技術と美意識の高さであり、マエストロたる所以だ、敢へて云へば、さうした贊辭だと取つていたゞいても構はないのである。(この項了)