クリスティアン・ティーレマン指揮ドレスデンシュターツカペレ来日公演(2)(2012年10月25日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2012年10月25日より)
ブラームス交響曲第3番/第1番/アンコール:ヴァグナー「リエンツィ序曲」 10月21日京都コンサートホール/10月22日NHKホール
第一交響曲では、前々囘の來日から、ティーレマンにどのやうな進境があるか、聽きたかつた。
序奏部は、フルトヴェングラーやカラヤンらのやうな壯大なテンポと、ティンパニの強烈な打込みによるフォルティッシモでの開始とは違ひ、樂譜指定通り、ウンポコソステヌート、フォルテによる、控へ目な開始である。ティンパニの打音もやはらかい。これはCDも、前囘來日も同樣だ。ティーレマンが、ほゞ同じ頃作曲されたマイスタージンガーの全曲演奏では、最初から分厚い轟音で開始するのに、ブラームスではさうした效果を狙はないとすれば、當然それだけの意味があるだらう。主部では第2主題部全體の幅廣いテンポの落とし方が一層味はひ深くなつてゐる。前囘と違ひ主部の繰返しは省き展開部に入る。
この展開部は、錯綜とした主題勞作の整理が今一つだ。フルトヴェングラー、ベーム(1975NHKライヴ)、カラヤンらに較べ、この邊は今一つ冱えない。しかし展開の後半深く沈潛して、そこから再度半音進行を繰返しながら上り詰め、和聲的なフェイントを掛けて遲れて再現部に入る激烈な展開、これは文句なしだ。
第2樂章は第3番とは違ひ、寧ろ手放しに歌ふ。これは遲れてきた青春の歌、内燃する情念といふブラームスの氣質に變りはなくとも、音樂はやはりまだ若さの面影を留めてゐるからだ。
3樂章の愛らしいアンダンテを經て、演奏の頂點は間違なくフィナーレである。序奏は過度に重くならず、ハ長調に轉じると、弦の光り輝くさざめきに乘つてアルペン主題が出る。風が吹き拔けて、急に空が高くなつたやう。そして、コラール風の主題が深い祈りを籠めて奏され、アルペン主題が山々をこだまするやうに響きわたる。その後に續く長いルフトパウゼ(全休止)。祈りと聖性の沈默。第1主題が、指定のピゥ・フォルテではなく、ピアニッシモで囁かれるやうに歌ひ出される。この音樂の、自然との交歡、そしてその延長にある神聖さ――。
以前はこのパウゼが必ずしも説得的でなかつた。フルトヴェングラーの《第9》フィナーレの有名なパウゼを聯想させるが、あれも樂譜の解釋の問題ではなく、置かれた沈默を聽き手が「意味」として、「體驗」としてどう共有するかが問題だと思つてゐる。今囘の來日では、前段の音樂の祈りの深さが、この沈默を滿してゐた。少くとも、私は音樂が祈りに化するのを、コラール主題にまざまざと聽いた。これは、ティーレマンが試行錯誤の末に發見した、《第1》の高さと言ふべきであらう。
その後、音樂は、この精神的な高さを保ちながら進むが、山のやうに盛上がつて巨大なエネルギーの突進に身を任せ始めるのは、複雜な對位法が猛りくるつてアルペン主題の爆發を呼ぶ285小節からだ。ティーレマンは、こゝで音樂の手綱を一氣に解放する。第3の出だしから思へばずゐぶんぎりぎりまで情念は抑へられてきたのである。こゝに至り音樂は、生き物のやうに、エネルギーの奔流と化し、前へ前へと急ぐ。
コーダ直前の沈潛は森深い湖のやう。その湖水から波が徐々に高まるやうに炸裂するコーダに入り、コラール主題で音樂は雄大なパノラマとなる。夕景のアルプスのやうに、暮れなずむ名殘のなかに大きく浮び上がるやうだつた。いはゆる力演ではない。ハ長調のアコードでも、ベートーヴェンの《第5》とは違ふのである。ブラームスでは、音樂の昂揚も沈潛も、あくまで複雜な批評の中で展開される。
アンコールは《リエンツィ序曲》。ワグナーに關しては、ティーレマンは、何をやつても、極上で、動かし難い絶對の領域に達してゐる。ブラームスの世界とは違ふ。こゝでは批評など凍結して、たゞ音の喜びに身を委ねる15分。