ニューヨーク日記(3日目・2)平成29年1月21日
ブルックナーチクルス第三夜、第3交響曲の夕べから戻つたところである。
面白うて やがて滂沱の涙かな
といふところであらうか。
3番で既にこんなに凄くて、9番までどう持ちこたへ高みに向けて昇り続けるのだらう。
奇跡の一夜だつたといふ他はない。
とにかく音楽が面白く演奏が面白い。バレンボイムは乗つてゐる時とさうでない時の差が非常に大きな演奏家だが、2番、3番と彼の最善のコンディションと言つていい。昨年2月の東京でのチクルスとは残念ながら相当の温度差である。無論あの時も比類ない1番、4番、6番があり、後期の3曲は全力投球ではあつた。が、仕方がないのだ、東京とNew Yorkでは聴衆の温度が余りに違ふのだから。Carnegieの聴衆は、昨晩ではプログラム前半のモーツァルトのピアノコンチェルト20番で既に会場総立ちのスタンディングオベーションだし、今日の24番ではさうならずにしつとり拍手をしてみせ、第3交響曲といふ初期作品で既に会場中がブラヴォーの連呼となる。これで演奏家が手を抜けと言はれても4番、5番ともつと頑張らない訳にはゆくまい。
ところが、この15年来日本の聴衆と来たら、いい演奏なんだか悪い演奏なんだか、どの位感動したのだかしてないのだか全く分らない反応ばかり。以前は違つた。ベーム、カラヤン、チェリビダッケ、クライバーに対して東京の聴衆が示した反応は有名人病のそれでもなければ、オートマティックな物では決してなかつた。ところがその後敬老病が来る。朝比奈隆やギュンター・ヴァントの晩年、演奏の良し悪しとは別に敬老的な熱狂が会場を包み、不気味過ぎて私は途中から彼らのコンサートにはゆかなくなつた。そしてその次に来たのが、誰の何を聴いても、湿つぽくて発火が悪くて、つまる所どうだつたのよ⁈といふ反応ばかりの15年。凄い演奏を聴いてもパチパチパチ、ひどい演奏でもパチパチパチ。いづれの場合も何を期待してゐるのだからカーテンコールだけはずるずる続く。
影響力ある批評家と言へば、昨年亡くなつた宇野功芳さんだが、彼の最後の20年は演奏家の評価においてはミスリードばかりだつたし、それ以外の人は、古楽器ブームに乗つて貧血気味の演奏を理屈を付けて称賛したり、ブルックナーと言へば使はれる版の事ばかり問題にしたり、いづれにせよ冷静で退屈で持てない男の典型みたいな文章ばかり。
なるほど、カーネギーホールの聴衆はきつぷがいいが、演奏中の静寂を破る咳は多いし、偶に演奏の間に会場の誰かの会話が聞こえてきて驚かせるやうな事もあり、行儀はよくない。けれど、演奏に集中し、共に時間を経験しようといふ聴衆の気組みは伝はる。バレンボイムのやうに南国の血を引いた人懐こい演奏家にとつてはこの分り易さは集中し易い環境に違ひない。
そんな事はともかくブルックナーの3番である。
……1楽章が弦による森の木々の囁きあひのやうに始まる。バレンボイムは殆ど拍子を取らない。音の行方を追つてゐるだけで体の動きはごく僅か。危険なやり方である。極度の集中によつてもなほ乱れる可能性の方が高い。その緊張した囁きからトランペットの動機が聞こえてくる。これこそは、ブルックナーが彼の固有旋律といふべき決定的な個性を発見した瞬間だと言つていい。ロマン派の主題でもなく、ワーグナーのウルトラモダンなゲルマニズムとも違ふ。太古の記憶を刺激する、霊性の根源に触れるやうなメロディーだ。やがて弦と管とが呼応しながらクレッシェンドが来る。ギリギリまで棒を振らずにオケを睨み続けるバレンボイム。体の内に巨大な圧力がみるみる漲るかに見えるとそれがつひにオケに感染し、内側から山が盛り上がるやうな巨大なクレッシェンドが来た。
巨大なクレッシェンド! さうなのである。単に音が大きくなるのとは全く違ふ。山のやうなエネルギーがステージから会場に向けて放射されるあのさま! あれは聴くものではない、見るものだ。第一主題がかうして内なるエネルギーの巨大な凝縮としてステージ眼前にありありと提示されるのを我々は正にあの時、見たのである。
かういふ絶好調の時のバレンボイムは、後はもう委細構はず、音楽を楽々と動かし続ける魔法使ひであつて、我々はただもうそれに引きずり回されるばかり。バレンボイム指揮で聴くこの1楽章が既にブルックナーそのものでありながら、しかもどんなに動的なアレグロの音楽でもあるかを聴くがいい。チェリビダッケ晩年の、まるでパルジファルの聖杯の音楽のやうな第3番――あの秘儀の静的な世界も比類なかつた。
が、74才のバレンボイムの音楽の何と激情的で若い事か。絶えざる前進、攀じ登るやうに音楽は高潮し、頂点でも悠然と構へたりなどせず、轟きはさながら眩さの嵐のやうだ。一方第二主題の優美な揺らぎたるやどうだらう。もう音楽は完全に指揮者の棒から離れてオーケストラ自身の歌になつてゐる。誰がどう歌ひどういふ指示があるかも分らない。第二ヴァイオリンが歌ひだしヴィオラが呼応する。群がまとまつてゐるのでもない、一人一人が自由に歌つてゐる。ここまで来ると目に見えない高度な交感であつてアンサンブルなんてものぢやない。スコアがあるのが信じられない程の、あれは自由な歌だつた。
バレンボイムが3番で採用してゐる第2版は通常使用されるブルックナー晩年に簡素に整理された第3版よりも唐突な激情の爆発やエピソードの豊富さ、ワーグナーの〈指環〉からの引用が多く残されてをり、さうしたいはばブルックナーの過剰さをバレンボイムは殆ど弄ぶやうにオケを駆り立てる。2版の「過剰」は多くの指揮者には乗りこなせまい、私だつて今日のバレンボイムを聴くまでこの版に説得された事は一度もなかつたのだから。
2楽章はブルックナーのアダージョの傑作だが、それをいふなら、ブルックナーのアダージョで絶美の素晴らしい主題やパッセージを持たない曲は殆どない。今聴いてゐる曲が彼の最高傑作だといつでも思はせてしまふのがブルックナーのアダージョだ。が、それでも、この3番の主題の清らかな祈り、微塵の汚れもない純白の祈りを、外の何に置き換へられるだらう。
それにしてもバレンボイムの指揮。この祈りの主題が膨らんで大きな陶酔と嘆きにまで高まつたあの光輝溢れる瞬間を彼がどうやつて作り出したのかは分らない。又、あの瞬間がレコードに残せるとも思へない。多分、あそこで、カーネギーホールは、美の経験が絶対になる時間の秘密を経験したのだつたに違ひない。言葉は全く届かず、物理的な記録によつても時間の絶対性は残せない。バレンボイムがカラヤン的な意味でのセッション録音の完成度に全く熱意を示さないのは、彼が演奏家としてかうした絶対的な美の瞬間を余りにしばしば実現できてしまふからだらう、フルトヴェングラーがかつてさうだつたやうに。
今日のこの楽章こそは、その絶対の瞬間だつた。
3楽章のスケルツォの愉しさ、レントラー風な箇所のバレンボイム一流の優美さを経て、フィナーレも又1楽章と同様、激情と祈りと輝かしい金管のパッセージがひたすら波のやうに会場に氾濫し続ける。第二主題でのバレンボイムがホルンの主題よりも弦の有名なポルカに酔いしれてゐた事、プレストのやうに突撃する第3主題から見る間にゼクエンツを刻みながら駆け上るクレッシェンドで、棒を超えてオケが駆け出してゆく様に見とれた事――しかし、さうした記憶の断片断片を超えて、あのフィナーレコーダの対位法的な大伽藍の輝きの中で私は童心にかへつたやうに茫然としてゐたやうだ。夢のやうに一瞬で過ぎてしまふコーダ。引き延ばされずに先を急ぎながらその急テンポが生む壮大さ。
疾駆するままに雄大、いや疾駆するがゆゑに雄大――さう、この交響曲をスタティックな聖杯交響曲としないでベートーヴェン的なアレグロの動的交響曲としながら、バレンボイムはここで何と柄の大きなパノラマを描いてみせてくれた事だらう。チェリビダッケからティーレマンに引き継がれた聖杯交響曲としてのブルックナーとは対極的な、フルトヴェングラーが体現してゐたアレグロ交響曲としてのブルックナーが、第4番以後どのやうにバレンボイムの指揮の下で変容してゆくのか。今日の三番の圧倒的な出来映えによつて、私の期待は息苦しいまでに高まつてゐる。