バレンボイム&ベルリン國立歌劇場の《トリスタン》平成19(2007)年10月8日/小川榮太郎(2008年02月20日より)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年02月20日より)
今日は他のことを書くわけにはゆかない。私は、今、初日を迎へたダニエル・バレンボイム指揮のベルリン國立歌劇場の《トリスタン》を聽き、完全に打ちのめされてゐる。生涯忘れ得ぬ夕べであり、眞に希有な音樂體驗だつた。幾つものディテールが鮮烈に甦る。たつた今の出來事なのに、遠い世界から戻つて來たやうにも思はれる。
私は、かつてサントリーホールで聽いたチェリビダッケ指揮のブルックナーの八番を思ひ出してゐる。あの時、私は、完全に無二の世界が、音だけで現出するマジックを眼前にして、感動したといふよりも、茫然自失した。時間が、異常に高濃度な音の構築の爲に、ついに停止してしまひ、さながら巨大な空間と化して、凍結したやうであつた。チェリビダッケは、指揮者一人の精神的音樂的能力の全てを極限まで驅使して、大噴火や巨大な津波のやうな自然の根源力をホールに持込んだかのやうであつた。あのブルックナーが音樂だつたといふのは、疑はしい。音の論理を限界まで極めた時、音樂のダイモンが、サントリーホールを暫時、靈的祕儀の場と化したと云つた方が本當らしい。
バレンボイムの《トリスタン》は、やはり徹底して巨匠指揮者の藝術と云つていゝもので、感銘の強烈さも、あの時以來のものだつたが、チェリビダッケとは異なり、指揮者が、作品の途轍もなさに、自然に寄り添つてゆくうちに、作品の力が直かに聽き手に解放されてゆく性質の音樂である。歌手やオーケストラの團員たちとともに、彼は、作品の世界に飛込み、實際に、その世界を生きてみせる。カラヤンやクライバーの《トリスタン》レコードのやうに、あらゆる細部まで磨かれた演奏ではない。寧ろ、あらゆる細部まで、歌手と管弦樂のメンバー全員が、徹底して聽き合つてゐる演奏だつた。いや、勿論、それならば、カラヤンやクライバーだつて、さうだと云ふことになるかもしれない。だが、私の云ひたいのは、少し違ふことなのである。彼らの指揮で、お互ひの音を聽き合ふといふのは、いはば音樂上の注意力のことだが、バレンボイムの指揮では、互ひを聽き合ふことが、互ひに信頼し合ふことであり、共演者やオーケストラの團員が、それぞれのパーソナリティを喜んで受け容れあひ、共に、作品自體の世界に奉仕することになつてゐる。
それにしても、第一幕への前奏曲から、なんと味の濃い指揮であつたらう。重荷を負つた溜息のやうで、ヴァグナーがこの曲について「愛の苦惱と悲慘」の表現と書いたそのまゝだ。フルトヴェングラーの蕩けるやうな陶醉や、クライバーの敏捷で活力に滿ちた音樂とは異質の、もつと素朴で、暗い世界である。バレンボイムは、クライバーのやうな、颯爽とした俊敏は、寧ろ、徹底して却けてゐる。あれは、魅力的だが、指揮者の藝術に過ぎない、自分は、たゞ徹底して《トリスタン》の、とらへ切れぬ暗がりに降りてゆくだけだ、彼はさう云つてゐるやうだ。
イゾルデの告白やブランゲーネとの掛合ひは寸分の隙もない。ワルトラルト・マイヤーは春のベルリンでのイゾルデ役の批評で、聲の衰へを指摘する向きもあつたが、それを感じさせない極めて求心力の強い歌唱だ。聲の豐かさよりも、表現の深みへの理解によつて、ダイナミズムを生んでゐる。バレンボイムのテンポは重たげなのに、瞬時もだれることがない。重たさの中に、實に巧みにテンポの流動を作り、輕く流す部分を作つてゐるのである。媚藥を飲む邊りの緊迫感から、その後の陶醉、そして船の上陸が重なるあの途方もない一幕幕切れは、壓卷だつた。
二幕は、意外にも、二人の密會の瞬間の、胸高鳴る狂ほしさを、全く煽らない指揮である。こゝは、フルトヴェングラーは勿論、誰もがこゝぞとばかりの昂揚を作るところだが、バレンボイムは、寧ろ、管弦樂を抑へ、テンポも動かさずに、じつくり歌はせる。演奏は、その後、愛の二重唱に向けて、ひたすら密度を高めてゆく。愛の二重唱にこそ、クライマックスがあり、その沈み込むやうな陶醉の強さが、媾曳の現場に踏込んだ王の歎きのやり場のなさを引立てる。バレンボイムは、曲の後半に向けて、音樂の密度を高めてゆくやうな、大きなアーチの構造として、二幕全體を一つの流れのもとに描き切る。このバレンボイム流の俯瞰は、音樂に大河のやうな壯大なゆとりを與へる。そのゆとりが、個々の場面の刺戟を積み重ねるやり方とは異なる、“全體”のもたらす感動の祕密であるやうだ。
しかし何と云つても、第三幕こそはバレンボイムアンサンブル最高の達成であつた。これこそは音樂の奇跡であり、ヴァグナーの創造の神祕に肉薄する、眞に偉大な指揮藝術である。前奏曲は心身の不如意なトリスタンの底知れない絶望の溜息を告げる。バレンボイムの指揮が釀出すその眞實味だけで、震へるやうな感動が來た。
だが、これは序の口に過ぎない。この幕の大半を占める、トリスタンの長々しい獨白が、これ程、本物の赤裸々な歌となつて迸り出るのを、私は、今まできいたことがなかつた。精緻な心理劇は聞こえてきても、これ程、胸掻きむしられる恐ろしい慟哭の連續だと感じたことはなかつた。二十世紀後半は、この肺腑を刳る絶叫は、樂譜に忠實な解釋といふ考へ方とレコードの影響を受けて、概して、精緻な心理劇に置き換へられる傾向があつた。バレンボイム指揮での二つの映像も、その點同樣で、今日の演奏に較べれば、その影法師と呼ぶのさへためらはれる。その意味で、今囘のトリスタン役クリスティアン・フランツ ――最近のヘルデンテノールで實力派とのことだ――の、こゝでの捨て身の歌ひ振りは、それに寸分の隙なく付けたバレンボイムの指揮と共に、壓卷だつた。(今日のヴァグナー歌手を、聲の點で、二〇世紀前半のヘルデンテノールと比較して歎くのは止めよう。これだけは仕方のないことなのだから……)
トリスタンの告白にさんざ胸を掻きむしられた後に、その死とマルケの歎き、そしてイゾルデ役のワルトラウト・マイヤーの絶唱である。バレンボイムはオーケストラを抑へに抑へ、マイヤーの聲を慈しむやうに抱擁する。オケの優しい囁きに輕々と乘つて、マイヤーの聲は天空に舞ふ。それはどんな強奏も作り得ない壯大な音の伽藍である。その後に、あの比類を絶したクレッシェンドの波が、會場を襲ひ、隅々までを涙でひたし、ゆつくりと消えてゆく。恐ろしい程の甘美と法悦が身體を貫く。五時間に凝縮された永遠の愛といふ祕儀の、をはりなき終焉……。
追記……以上は、初日横濱公演の感想である。私は全日程聽いたが、觀客の質は、初日の横濱が段違ひに高水準で、演奏の出來や私の感銘にもそれがかなり大きく響いたやうである。例へば、二幕で、ルネ・パペのマルケ王が、二日目以後大喝采を受けてゐたが、これは解せない。二幕後半で、パペは朗々たる聲で、勝ち誇つた王者のやうな歌を聽かせたが、この場のマルケ王は煩悶にうち顫へ、自問自答に苦しむ人間である筈だ。イタリアオペラではないのだから、聲の立派さのみで喝采を浴びせる聽衆の判斷は疑問視せざるを得ない。
また、三幕後の長い沈默を守つた聽衆も、初日のみだつた。二日目からのNHKホールでは、音を刳るやうに響かせる爲に、ピットが深くなり、バレンボイムが客席から隱れてしまつてゐることもあつて、曲がをはつた途端拍手が出てしまふ。四日目に至つては、最後の和音の途中で拍手が出た。憤慨に耐へないとはこの事である。かうしたがさつな拍手を經驗すると、初日のあの沈默こそは、この大藝術を完成させるのに不可缺な瞬間であつたことを、痛感せざるを得ない。數秒の沈默が五時間のドラマの全重量を擔ふ。あの苦惱、そしてあの陶醉は、沈默の中でこそ、まざまざと聽き手一人一人の心の底にまでとゞくのである。死の際に生涯の記憶が甦ると云はれてゐるが、それと同樣、《トリスタン》の經驗全體は、その沈默の中で、絶對と化する。
拍手に關しては、主催者から會場にはつきりと呼び掛けて然るべきではないか。それは觀客の意思表示の自由とは何の關係もないことだ。二階席で見てゐて始めて分つたが、バレンボイム自身、沈默の中で、指揮棒を高々と上げて、曲がをはつてゐないことを、示さうとしてゐた。だが、彼は背が低く、觀客の大半にはそれが見えないのだ! 《トリスタン》のあの時間は二度と永遠に戻らない。返す返すも無念なことではないか!