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ティーレマン、奇跡のベートーヴェンチクルス、《第7》のベストレコード誕生!(1)小川榮太郎(2010年06月12日より)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年06月12日より)

クリスティアン・ティーレマン指揮/ウィーンフィルハーモニー管絃樂團/ベートーヴェン交響曲第8番、エグモント序曲、第7番(2009年11月22日)

 カラヤンvsチェリビダッケの途中だが、ティーレマンの昨秋のライヴ録音――世を憚る海賊盤である――が餘りに素晴しいので寸評を先に加へる。この稿の次にチェリビダッケの《悲愴》に戻るので、御諒承下さい。

 昨月第9交響曲で完結したティーレマン指揮ウィーンフィルのベートーヴェンチクルスの實況録音盤を、誘惑に抗せず、海賊盤で入手した。まづ音が素晴しくて驚いたのだが、ラヂヲ放送から採つたのだらうか。年末にはグラムフォンからDVDの全集が出る筈で、それ迄待つ樂しみもあるだらうが、私は萬事につけ、こらへ性がない人間なのである。それにDVDだけで出すのだとしたら、どうしたものだらう。やはり、音をきちんと聽く上ではCDとしても發賣してもらひたいものである。特に、今回のCDには日本ではのだめですつかりおなじみになつたベートーヴェンの《第7》が収録されてゐるが、現時点では海賊盤といふ事になるが、それでも、同曲のベストレコードと断じたい。フルトヴェングラー(条件のよい録音が一つもないのは残念である。)、トスカニーニ、クレンペラー、ベーム(ただしライヴの方)、ムラヴィンスキー、カラヤン、クライバー、バレンボイムらの名盤群の感銘をはつきりと、しかも大きく凌駕する。

 手短に批評する。第8番は、柄の大きな巨匠風。プフィッツナー、フルトヴェングラー同樣、曲の開始直後にいきなりブレーキを掛けてのけれん味も樂しいが、さうした表現上の遊び以上に、音樂に流れる雄大な骨太感は、フルトヴェングラー、チェリビダッケの延長にあり、しかも、或いは、彼らよりも巨きさを直かに感じさせる。勿論、あらゆる藝術の巨きさは、細部の濃密さと切り放せない。この演奏も、しなやかで纖細な、しかも清潔に歌ふ演奏である。本當に、どんなフレーズも、何と豐かに歌はれる事だらう。壯大で、且つ優美極まる。展開部後半のフォルテ3つへの昂揚感の作り方は、緻密で強烈。この樂章は特に聽き應へがあつた。2樂章は、概して愚直な印象、3樂章はフルトヴェングラー風に柄の大きな演奏であるが、細部への拘泥がやゝ乏しい。4樂章も、正攻法で手管は弄さないが、實に、巨大でしかも峻烈、いや、時に殆ど深刻と言つて良い程だ。こゝでのベートーヴェンは決して、單純晴朗に上機嫌などではない。寧ろ、4樂章でさへ、葛藤の氾濫のまゝ、音樂を閉ぢなければならない事への、自嘲や祈りが聞こえてくる演奏である。第1主題のリズムなどは、今のバレンボイムならばもつと遙かに雄辯な面白さを聽かせるかもしれない。やゝ愚直である。しかし、あの低弦のデモーニッシュなフォルティシモからトゥッティで主題が繰返される時の、苦みを含んだ、痛烈なスフォルツァート、そして木管群の鮮烈なアクセントから、一轉しての第2主題の優美さ。しかし、ベートーヴェンはこの優美さを信じてゐない。全く陶醉してゐない。ティーレマンを聽きながら、私は始めてのやうに、この主題の實に奇妙な嘘臭さを感じてゐた。コーダはポーカーフェイス。寧ろ、じつくり綺麗で、踏み外しのまるでない結末である。

 ミュンヘンフィルとのレコードに較べて、序奏で格段にデモーニッシュな重みが音樂にくははつてゐるエグモント序曲も見事だが、その後の《第7》。これこそは、壓倒的な名演だ。(この項續く)

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