スティーヴン・イッサーリス チェロリサイタル(2)(2011年5月24日)
(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2011年05月24日より)
(承前)それが次のショパンのチェロソナタになると、シューマンの夢見るやうな自由の世界とはまるで違ふ。もつぱらピアノの硬質な音を選び續けたショパンにとつて、チェロといふロマンティックに伸縮して歌ふ樂器は、最も對極的な音の世界である。イッサーリスも、この曲を、ショパンが友人のチェリストとのデュオを樂しむ無邪氣な幸せを乘せて成功した曲と、見てはゐまい。寧ろ、彼は、チェロに、「音」といふ素材と格鬪させ、安易な歌に轉落することを許さない。詳細を分析する力は私にはないが、前曲に續き、イッサーリスが實際にこゝで驅使してゐる技法は驚くべきものだ。ヴィブラート一つとつても、何と多樣であることか。時折用ゐられるノンヴィブラートは、非常に注意深く限定的だ。音程の取り方も一樣ではない。高音で歌ふ時には、時にシャープ氣味にせり上げもするし、大見えを切つての和音では、大膽なまでに濁つてうなりを上げる。チェロといふ「歌へてしまふ樂器」では、歌は寧ろ一本調子になり易い。だが、彼の歌は、響き、とどまり、たゆたひ、天翔け、失速し、冥想し、陶醉し、感泣し、嗄れ、疾驅し、變容し、あるいは、歌ふ事の停止、そして、時間そのものにバトンを委ねさへして――あらゆる瞬間に新鮮であり續ける。例へば、それを樂天的なヨー・ヨー・マの世界と較べて見るがいゝ。あるいはマイスキーの、一見近い世界が、マニエリスムの退屈さを早くから背負つてしまつてゐる有樣と。
それにしても、ピアノの巨匠ショパンがチェロの爲に書いた音樂が、苦しげな音との格鬪として響くのに對して、シューマンが本來はクラリネットのために書いた幻想小曲集が、チェロといふ樂器を完全に自由にしてゐた、あの解放感は一體何だらう? 演奏家からさうした問ひを投げ掛けられ、しかもそれが、全くペダントのかけらすら感じさせずに、音樂そのものの喜びであり續けるとは、何と贅澤な時間だらう。
休憩後は、祖父ユリウスの美しいバラードとラヴェルの小品を經て、プーランクの傑作である。これは! ………何といふプーランク!! プログラム解説は池原舞さんといふ方だが、池原氏が書いてをられるやうに、この曲は、「プーランクの特徴である「フランスのエスプリ」にあふれている」筈である。私が愛聽してゐるEMIのピエール・フルニエの演奏も、聽きながら、「シャンパンがそのまゝ音樂になつたやうな」と感じて、それをそのまゝ誰かに手紙を書いたこともある、私がその時手にしてゐたのは、シャンパンではなく、ウィスキーだつたが。
ところがどうだ、イッサーリスのプーランクの大きさときたら! グランドマナーといふ言葉でも足りないといふ氣がする。1樂章も輕やかな切れ味よりも、基本的にゆつたりとしたテンポで心ゆくまで歌ひ切るので、音樂はドイツ・ロマン派的な重厚で粘りの利いた世界に變貌してしまふ。ダイナミック・レンジの幅や、テンポの伸縮も自由で大きい。極めて美しい2樂章は、殆どヴァグナー的な世界に廣がりを見せる。和聲や旋律上からの聯想といふよりも、ピアノで祕かに始まる歌が、アーチを一度も跡切らさずにホール一杯にエレジックな高まりを歌ひ、その後曲尾に向けて、これ又息の長いデクレッシェンドが同じくらゐ見事に内面的な緊張を高め續ける樣が、ヴァグナーを聯想させたのである。かうした極度に長大なクレッシェンド=デクレッシェンドを本當に内側から支へて昂揚を歌へる音樂家は、今、指揮者のティーレマン以外にゐるだらうか。しかもイッサーリスに與へられてゐるのはチェロだけなのである!
3樂章の小洒落た舞曲も、フランスのエスプリではなく、ベートーヴェンの哄笑に寧ろ近い。中間部など、夜景の美しいバーで流れてゐてをかしくないやうな曲想が、イッサーリスの手にかゝると、例へば、アルルの陽光と草いきれ、野遊びの喜びではち切れさうな音樂に變貌する。そして4樂章。冒頭バルトーク風の短いが重厚な序奏で、嚴肅な時間の幕が切つて落とされる。何と壯大な響き、そして時間感覺だらう。まるで、偉大な交響曲の開始のやうだ。ハイドンの序奏同樣、アレグロの祝祭を前にした神聖な時間。實際、このプーランクのフィナーレでも、めくるめくやうな心の底からの晴れやかな喜悦と言つた態で祝祭は始まる。そのまゝ常動曲風に移行しての第2主題(と私は理解したが、間違つてゐるかもしれない。)で、ピアノと掛合ふ5度のメロディーの印象的なパッセージがあるのだが、イッサーリスは、こゝに踏込みの深いリズムの彈みと粘り拔く歌で、ちよつと想像も付かないやうな陶醉を作り出す。複雜で魅力的な展開部での力演、ごく短縮された再現部から、序奏に囘歸しての簡素だが雄大な終結。偉大なのは新たに發見されたプーランクのソナタなのか、こゝまで壯大に讀み切つたイッサーリスなのか。
アンコールのフランクのソナタも、シンフォニックな構築性と手放しの雄大な歌で、交響曲のコンサートでも滅多にあぢはへないエクスタシーと解放感。
しかし、今の私にとつて眞に忘れ難いのは、冒頭シューマンの、あの友人としての私への語り掛けである。それは感情の上での優しさである以上に、人間の手應へ、精神生活の手應へをもつた「聲」の深さだつた。十九世紀のドイツ音樂が、親しい友人や家族間での室内樂の樂しみを土臺にしてゐたことを私は思ひ出す。人間が、自分の心を見つめ、感情生活と同時に知的な喜びによつて心を整へる、さうした暮しが、人間を人間たらしめる上でどれ程大きな意味を持つてゐたか。和歌や俳諧もさうした精神生活の場所だつた筈である。私が選んだ文學はいはゆる近代文學ではあるが、私にとつて、文學は、その意味を些かも出ない。さうした内省と對話のないところに、どのやうな人生の喜びがあるのか、人と付合ふ喜びがあるのか。私の孤獨は、人交際の數が増えれば増える程、今や殆ど瘉し難い困難に立ち至つてゐる。(この稿了)