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チャイコフスキー:ピアノコンチェルト第1番/ダニエル・バレンボイム(p)/セルジュ・チェリビダッケ指揮/ミュンヘンフィルハーモニー管絃樂團(2)(2010年05月14日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2010年05月14日より)

 第1樂章では、壯麗な提示の後、ピアノがカデンツァ風に第1主題を展開する時、バレンボイムは音樂と共に、苦惱の底に降立たうとする。ピアニスティックに處理されるのが普通のかうした場面で、音樂の展開は、いはば、内面化されるのである。最も、彼は感情を音樂に押付けてゐるのではない。多くのピアニストが指の論理と感情美學に則つてゐるのに對して、昨日書いたやうに、バレンボイムは、和聲進行とドラマツルギーの高度な一致を目指す。純音樂的な力學に從つてゐるだけだ。そして、それこそが、音樂の傳へる内的な苦鬪の、極めて感情的な表現になつてゐる。指揮者のピアノと私が言ふ所以である。バレンボイムは、この展開を追ひ立て、再び、あの雄大な第1主題の歌をチェリビダッケに投げ返す、そしてチェリビダッケの奏でる壯麗な歌に乘つて、バレンボイムは付點を強烈なストレッタで追ひ上げたいのを辛うじて我慢しながら、チェリビダッケのテンポに耐へてゐる。この邊りの竸奏的な緊迫感! 奏者同士の音樂家としての對峙と共感とが、そのまゝ音樂的なドラマと直結してゐる。第2主題もスラヴ的なエピソードとしてではなく、成熟したシンフォニーの不可缺な構造の一部として奏される。不定型な動搖する感情が、形を求めて喘いでゐるやうだ。第1主題から導き出され、第1主題の感情領域へと囘歸する。展開される和聲的、音型的な展開として1樂章では指揮者の作り出す空間を、バレンボイムが和聲的、感情的な論理の襞を描き盡すといふ格好で、全體としては、後期のシンフォニーに勝るとも劣らぬ、構造的な建築として再現されてゐる。

 2樂章では沈默の力が支配する。この素朴な民謠に、チェリビダッケは宗教的な深い沈默を發見し、バレンボイムの歌は、祈りに滿ちてゐる。中間部のプレスティッシモは、絹を透かして舞踏會を見るやうなチェリビダッケの纖細な指揮を背景に、バレンボイムは自由な戲れを遊ぶ。ピアノの音がオケの中に埋沒するかと思ふと、ひよこつと顏を出す愛くるしさ、この、マジカルな輕みは、フィッシャー=ディスカウがリートの世界に發見した或る種の表現と同樣、ピアノの世界にバレンボイムが始めて發見した表現領域ではないかと、私は考へてゐる。

 3樂章の面白さは、ぢかに味はつていただく外ないだらう。この音樂に、豬突猛進ではない、あらゆる音樂的愉悦や對話を掘削してきた二巨匠の對話の藝術は、類のない内的な燃燒感で、聽き手を爽やかな興奮に誘つてやまない。第1主題の緻密に積上げられた熱狂は、抑壓された野性によつて内側から強い張力でせり出してゐるし、2つの主題のテンポの橋渡しは絶妙である。第2主題でのバレンボイムは優美な舞ひのやうにきらめく。

 コーダでは、息の長いメロディーラインを歌はせるチェリビダッケの壯大な響きのタペストリーに乘つて、しなやかに呼吸しながらフォルティッシモを叩き出すバレンボイムの強靱なタッチが、聽き手を呪縛する。勿論、チェリビダッケは、最後まで加速する事を頑なに拒む。ピアニストへのこの苛酷な挑戰に答へて、寧ろ、速めのテンポでは逃げてしまふエネルギーを、バレンボイムは強烈な滾りの中にぶちこむことに成功した。フルトヴェングラーの對極的な二人の息子、チェリビダッケとバレンボイムとが四つに組む事で、激烈さと壯大さとの、かつて見ない高密度な兩立が實現してゐる。その點、單なるこの曲の名盤にとゞまらず、このレコードは、演奏史の奇蹟の一つに數へていゝだらう。

 長くなつてしまつた。次囘から、原稿3枚に收める事を目指したい。(この項了)

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