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東京オペラの森2008 チャイコフスキー《エフゲニー・オネーギン》指揮 小澤征爾/演出ファルク・リヒター/東京オペラの森管弦樂團、合唱團/ウィーン國立歌劇場との共同制作(4月15日於東京文化會館(2008年4月22日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2008年04月22日より)

(推敲、掲載順などの關係で、執筆から1週間が過ぎてしまつた。御諒承願ひたい。)
 公演から歸宅した今、私はじつとチケットを眺めてゐるところである。A席32000圓が、オペラの上演として高いか安いか。常識に聞けば高いといふだらう。世界のオペラ好きに聞いても、當然高いといふだらう。上質な海外オペラの引越公演を日本で聽くのであれば、殘念ながら安いと云はざるを得ない。だが、今日聽いたのは、オペラ公演ではなく、ぼつたくりのどさまはりだ。こんなものに30000圓吹つかけるのは、やくざでないとしたら、何樣か? ブログの性質上、何かを難ずる記事は載せたくないと考へてはゐるが、批評の機能を凍結して、僞りの微笑を片頬に浮べながら生きてゆくのは、私の性分には合はない。聽いて思つたところを書く。小澤のファンを不快がらせたり、この上演を樂しんだ方々に水をぶつ掛けたい譯では斷じてない。どうか、さうした方々は、お讀みにならないでいたゞきたい。

 東京オペラの森に就て詳しい事は知らない。知らないまゝにこれから書かうとする雜文を、批評と思つていたゞくなくていゝ。何故詳しい事を知らないか、今日の上演が餘りにチケット價格不相應にひどくて、プログラムを買ふ氣にさへなれず、その他、どんな手段でも、この企畫を調べてみる氣にもなれなかつたからだ。

 家に戻り、上演のどんな瞬間よりも、奇妙な程、終幕後の光景が忘れられない。拍手が起り、歌手がカーテンコールに應へてゐる中、オーケストラピットの中を隅から隅まで團員たちと握手して歩いてゐる小澤征爾の姿である。
これは勞ひなのか、へつらひなのか。

 私は人間の善良さに就ては、多分、愚かしい程お人好しに涙脆く、その點では―その點でも―時代離れした人間だと思つてゐる。『伊豆の踊り子』の有名な科白「いゝ人はいいね。」といふ踊り子の言葉に、胸が明るくなり涙ぐむ主人公の「私」に、一緒になつて涙ぐむ程、素朴にお人好しな私である。

 しかし、小澤征爾といふ人は、「いい人」なのだらうか? 餘りにも「いい人」だから、團員一人一人を勞はずにをれず、思はずピットの中を握手して歩く程に、「いい人」なのだらうか。その姿を見ながら、「いゝ人はいいね」と呟けない私は、邪心に滿ちてゐるから、素直になれないといふことなのか。

 主要歌手陣を本場ロシアから連れてきて、演出はウィーン國立の前哨戰、そして棒を振るのが小澤ならば、30000圓臺のチケットも、日本では仕方がないのか。だが、それならば、この出來榮えは何といふことだ。

 第1幕の序奏で、小澤が、音型の小さな動きにさへ、エモーショナルな起伏を讀込まうとするのを聽きながら、私は、それはそれでいゝ、さうした起伏に醉はせてくれるなら、その杯を飮み干さうではないかと思つたものだ。だが、その期待は、急激に醒め始める。第1に、そして2にも3にも、オーケストラがひど過ぎる。個々の奏者の技倆が低い筈はないのだらう。どのやうな成立ちのオーケストラかは存じ上げない。しかし、餘りにも歴然と寄せ集めの音である。アンサンブルとして成立つてゐない。文化會館に限らず、日本のオペラでのオケピットからの音は、だんごのやうに潰れ、光澤は消え易く、それでゐて充分な音量も確保出來ない。これは、大きな損失だが、今のところ、所與の條件を如何ともし難い。だが、さういふ言ひ譯は、30000圓を超えるやうなチケットで集客する以上、聞きたくはない。

 そもそも小澤が本當に、オーケストラから纏まりのいゝトーンを作り出せる力量を持つてゐるのであれば、どうして、かういふ事になるのだらう。練習が少な過ぎたのか。オーケストラの潛在能力が殘念ながら餘りに非力なのか。小澤に、寄せ集めのオーケストラを、素早く統御するやうな能力が、足りないのか。それとも、これを、ひどいと聽いた私の耳の誇張か、誤りなのか。

 ……1幕は、特に低調だつた。女聲と管弦樂が中心に、平和な抒情が續く音樂である。私は、この1幕の抑制された甘い美しさがとりわけ好きだ。だが、このなだらかさな長大さを、充分に音樂的感興で滿たして飽きさせない爲には、オケにも歌唱にも、纖細な、音樂心理學的な描出力と、アンサンブルオペラとしての充分練れた融け合ひとが必要だ。この音樂の魅力は、それほど控へ目で、抑制されてゐる。

 タチヤーナ役に豫定されてゐたヨクサーナ・ブリバンが體調不良で降り、代役に立つたのはイリーナ・マタエワとのことだ。彼我の實力差は知らない。代役マタエワは容姿の美しい可憐な人だつたが、歌手としては、蕾のやうなもの。役柄への踏込んだ解釋は全く聞えてこないし、聲や歌に、格別の魅力もない。1幕の低調の大きな原因は、オーケストラに加へ、彼女にあつたと云ふべきだらう。代役とはいへ、殆ど主演と云つていゝ役柄なのだから、そこに不足があるならば、音樂的に取り繕ふのが、オペラ指揮者に當然要求される仕事だらうが、その小澤の指揮自體が、私には全くいたゞけないものだつた。

 農夫の踊りの場面などのリズムの鈍重は、こゝろ引立つどころか、氣が重くなつた。リズムの惡さは一體どうした事だらう。全曲に渡つてゐる。2幕の舞踏會でも、合唱が華やかな喜びをやうやく音樂に加へたかと思つたのに、オケのみの後奏の鈍重が、全てをぶち壞してしまふ。とにかく、そんな事ばかりが續く。その上、全體に、小澤の指揮自體が、感情的なダイナミズムの論理以外に、表現のカードを餘り持つてゐないやうに聽こえる。音樂の樣々な色彩や論理、あやめが、一樣に、單純な情念に塗り潰されてしまつてゐる。歌唱と管弦樂パートとの會話もない。洪水のやうなヴィブラートだけが、辛うじて、小澤の《オネーギン》解釋なのかと思はせられる。そして、幾つかのナンバーでの幕切れのストレッタで、ティンパニのトレモロを、突出して強打するのも、如何にも安つぽい。音樂的な薄弱さを誤魔化す爲としか聞えない。

 演出は、ウィーン國立でプレミエ豫定のものださうで、1幕最初から背後にしんしんと降りしきる雪と、その中に、抱擁する7組程の男女を背後に、前景で、ドラマが繰り廣げられるといふ趣向である。確かに、ロシアの冴えない田舍が舞臺の劇ではあるのだし、また、これは、荒涼たるオネーギンの心象風景でもあり、寒々しい孤獨の中での愛の抱擁の、幻のやうなはかない悲しさの表象でもあるのだらう。視覺的な印象には殘つた。が、演奏がひど過ぎて、演出としての説得力は計りやうがない。疑問もある。この雪の表象が、1幕中えんえんと續くことだ。1幕は、ナターシャ母子と乳母の繰り廣げる優しい暮しと夢とが歌はれてゐる。寒々しさも、突發する悲劇も、前奏曲を除けば、音樂からは窺ひ知れない。1幕での母娘と乳母の平和、姉妹の戀が優しさに包まれてゐるから、幕切れから後の悲劇もドラマも生きるのである。1幕冒頭から、ひたすらしんしんと振りつづける雪は、こゝでの夢ある音樂をすつかり冷してしまふ。會場の温度調節もやゝ肌寒く、演奏は白け、舞臺背後は一面の吹雪……私は本當に身體が冷えてしまつた。會場に懷爐でも賣つてゐれば、一儲け出來たかと思はれるやうな底冷えだ。

 その他、農夫が工場作業員のやうな格好で現れたり、舞踏會の場面に、現代風のビートでのダンスが入るのは、最近では普通のことだらうが、特に意味が感じられない。當時のロシアから場面設定を變更するのなら、變更には、せめて明瞭な意味を感じさせてほしい。ちなみにダンサー達は、洗練に缺けて、學藝會のやうに見える。ウィーンでは國立バレエ團が受け持つから、こゝまで安つぽくはならないだらうが、それでも、こんな安物風の演出を音樂監督小澤指揮のプレミエで出していゝのだらうか?

 2幕は、オネーギン役ダリボール・イェニスとレンスキー役マリウス・ムレンチウ及び合唱が水準以上の出來で、やつと樂しくなつてきた。イェニスの歌はやゝ癖がある。だが、最初から、クールでニヒルな假面など被つてをらず、感情家としての面構へが歌にも雰圍氣にもあらはなのは、寧ろ、妥當だらう。ロシア革命まで延々とロシアの知識人を苦しめる、この餘計者意識の原型こそが、プーシキンの『オネーギン』で、チャイコフスキーが、その詞藻の美しさと内容に共感して、これをオペラ化したのは、周知のことだ。19世紀ロシアの餘計者の知識人は、白皙のニヒリストなどではないが、その内面に祕められた憂鬱は重く、正に音樂的な表出とは逆さを向いた情念である。これは、音樂で表現するのに、恐らく、最も不的確な役柄の1つだと云つていゝだらう。それはチャイコフスキーも自覺してゐた。

 そもそも、チャイコフスキー自身が、生涯憂鬱に惱まされた人だが、私には、それは、どこか、ロシア知識人の血統であるこの餘計者意識と通底したものに感じられる。しかし、憂鬱といふ言葉に騙されてはならない。チャイコフスキーの憂鬱は、時に1日中泣き喚くやうな性質のもので、日本語でいふ憂鬱の語感よりも、寧ろゴッホの狂躁などと大差のない、激烈なものである。さうした作曲家が、オネーギンの深い憧れの側から紡いだ夢がタチヤーナであり、レンスキーの屈託ない熱烈な戀慕ぶりである。レンスキーの死は悲しいが、悲しい死を、まるで弛緩のない全力疾走で生ききれたのは、オネーギン=餘計者=チャイコフスキーの側から見れば、寧ろ恩寵なので、彼に與へられた音樂がとりわけ美しいのは、その爲である。タチヤーナとレンスキーとが、それぞれに青春の悲しみを形にし得たのに對して、さうした明確な形を生きられないことこそが、餘計者意識であり、ニヒリズムである。オネーギンのさうした痛々しさは、寧ろ、2人に與へられた音樂の甘い喜びに照された影としてしか、表現されてゐない。その意味で、オネーギンは、歌唱ではなく、存在そのものの影によつてその役割を務めることになる。このタイトルロールの困難と私が云つたのはそのことだ。おそらく、こゝには、チャイコフスキーが最も熱愛したオペラ、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》の、ジョヴァンニの在り方が極めて色濃く投影されてゐる。タイトルロールでありながら、重要なアリアもなく、しかし、全篇に影のやうに君臨するバリトンだ。しかし、餘計者オネーギンの暗鬱は、中世の巨人の鮮烈な存在感には較ぶべくもない。美しいオペラなのに、さほど上演に惠まれないゆゑんでもあらうか。

 レンスキー役ムレンチウは、役柄に沒頭して秀逸であつた。オネーギンがレンスキーに出すちよつかいは、プーシキンの原作では、それなりに分らなくもないが、オペラでは、殆ど理解不可能である。一方、レンスキーの短時間での激昂は更に不自然だと、今まで私は感じてきた。しかし、ムレンチウの起伏の大きな激情を見ながら、私には、如何にも、短時間での、決裂と決鬪への轉換が、得心行つた。さう、ロシア的激情。ドストエフスキーが誰よりも見事に描いた、あの唐突な激情の發作の連續! その中に、レンスキーを置いてみなくては! 如何に美しいメロディーであつても、イタリア男の、絶えず女の方を向いた激情とは違ふ、友情の内部からき、それが破れたことへのやり場のない怒りで、これはあるのだ。

 決鬪の場面の熱唱は、音樂批評風に云へば、やゝ音程が不安定と注釋がつくかもしれないが、私には不足はない。3幕も、オネーギンを中心とした緊張感が續く。演出で、多くの男女をダンスのやうに組み合せて舞臺に配置し、その人林の中をオネーギンがさ迷ふといふアイディアは、面白かつた。これが獨創であるかどうかなどは、見た舞臺の數の少ない私には、論評できないが。

 かうして、1幕での危惧は、後半、何人かの歌手に救はれた格好だ。もし、これが新國立劇場での、通常料金で、ごく普通のクラスの指揮者による上演だつたならば、私はこれを酷評するつもりはない。だが、東京オペラの森といふ“企畫”は、それ自體が、特殊な水準を聽衆に期待させるオペラの祭典ではないのか。

 キャスト表を見ると、東京オペラの森といふ企畫には、錚々たる日本の大企業が協贊者として名前を連ねてゐる。企畫全體の音樂監督が小澤征爾である。名士權門こゝに集ひ、高額のチケットを懷乏しい音樂ファンから毟り取つた擧句、實質的に、何が、こゝで實現されてゐるのか。

 これは、音樂監督である小澤氏に借問すべきだらうと思ふのだが、一體氏は、この企畫で、何を日本の聽衆にプレゼントしてくれるつもりであつたのか。もし、小澤征爾といふ名前の下で、東京に、我が國が主體となつた新たなオペラ文化を根付かせやうといふのならば、それだけの、實質をどのやうに擔保するかが、徹底して熟考されねばなるまい。さうした熟考も丁寧な工夫も、何よりも、直に耳にくる上演の滿足ゆく水準も、何一つない“東京オペラの森”とは、一體何なのか。

 3萬圓も出して、この程度のオペラを聽くのならば、引越公演の中で質の高いものを選べば、うまくすればほゞ同じ價格から、今日とは比較にならない水準のオペラを聽く事が出來る。この2,3年でなら、メトロポリタン、ベルリン國立は5萬圓臺で高額だが、感銘の桁は勘定不可能な差であつた。昨年のチューリヒの《バラの騎士》に至つては、今囘の上演よりも安くはなかつたらうか。直後のバレンボイム=ベルリン國立の壓倒的な感銘の前に些か影が薄くなつたものゝ、昨年の各種のベストコンサートでは最高位にランクされたものだ。指揮のウェルザー=メスト以下、オケも勿論、歌手の陣容も、ほれぼれする程見事で、無論、今日のふざけた出來とは比較にならない。

 一方、新國立でならば、歌手の水準こそ、今日よりも1ランク下るかもしれぬが、オケは今日よりはずつとよく、3分の1の値段で、日本のオペラの「現在」を聽く事が出來る。

 さうした中で、東京オペラの森とは、如何なる意味を發信するつもりなのか。

 それから聽衆! もつと嚴しい反應を示さなければ! 1幕後、ものの10秒しか拍手が續かなかつた程なのに、終幕後では、小澤にブラヴォーが盛んに飛んでゐる。本當に良かつたと感じてゐるのだらうか? 高名な指揮者であつたり、オーケストラであつたり、高額チケットだつたりすると、それだけでブラヴォーが出る傾向は、東京の公演水準に惡影響を與へてゐると、私は信じる。また、法外なチケット代の高騰も、日本の聽衆が、高額であるといふだけで有難がる傾向が續く限り、改ることはあるまい。聽衆の反應こそがコンサートを作るのである。

 昔話だが、ウィーンだつたかどこか忘れたが、晩年のバーンスタインが《ジークフリート》を指揮した時、曲をきちんと掌握してゐなかつたバーンスタインのよれよれの指揮が、嚴しいブーイングに見まはれた事がある。名聲の頂點にゐた頃、ウィーンで1番人氣者だつた頃のバーンスタインである。それは、例へば、その暫く前の彼が、信じられないくらゐ深みあるマーラーの《第9》を指揮したことで、帳消しになるものではない。それを分別することこそが、聽衆が、音樂家と共に、音樂を作ることなのだし、バーンスタインへの敬意でもある。ヨーロッパの聽衆はそれを知つてゐるし、さうした聽衆の熱意が、クラシック音樂史を形成してきた。《春の祭典》初演がスキャンダルになる程に、彼らにとつて、音樂は、生存の核心にある。ヴァグナー派とブラームス派がつかみ合ひの喧嘩をする程に、音樂は、自分の全てを預けて悔いのない人生そのものであつた。

 ヨーロッパで出來上つたクラシックを有難く推しいたゞくのではなく、自分たち聽衆の聲をそこに反映させてゆくこと、東京のクラシック音樂を、本當に私たちのものに昇華するには、さうした聽衆の發言力が是非とも必要だらう。
今囘の公演は、その水準に餘りに問題があつた。これから老熟の時代を迎へる筈の小澤を、同じ日本人として大切にしたいといふのならば、彼には、世界的な水準で容認できる仕事を嚴しく求めるべきではなからうか。それこそが、小澤への本當の敬意であらうと、私には思はれる。(この項了)

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