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大植英次指揮 大阪フィルハーモニー交響樂團 (2009年02月21日)

(旧ブログ「ザ・クラシック評論」2009年02月21日より)

モーツァルト作曲ピアノ協奏曲第9番《ジュノム》(ピアノ:ジャン=フレデリック・ヌーブルジェ) マーラー作曲交響曲第5番

 野心的、挑戰的な演奏會だつたと言つていゝだらう。モーツァルトが既にたつぷりとした情緒的な演奏だつた上、休憩後のマーラーの《第5》は、實に演奏時間90分を超えてゐた。まるでチェリビダッケのブルックナーである。マーラーは、苦手で、身を入れて聽いた經驗は餘りないが、この曲で、こんなに全部が全部スローテンポで貫かれた演奏は、大植の師匠のバーンスタインも含めて、ちよつと思ひつかない。これで、2曲のプログラムといふのは、サービス精神旺盛とも言へるが、マーラーをこれだけ丹念に演奏するならば、1曲に賭けた方が良かつたらう。少くとも私は、くたくたにくたびれてしまつた、勿論、不快なくたびれ方ではないけれど。

 《ジュノム》は、おづおづと始まる。オケが、互ひの音を聽きながら、探り合ひで、少しづつアンサンブルを作つてゆくといふ印象である。現代の割切れたアンサンブル概念からすれば、不正確といふ事になるかもしれないが、大植の指揮は、「縱の線」を明確に合はせる事を、明らかに企圖してゐない。方法論としては寧ろ正統だと思ふが、その自發性が、本當にこぼれるやうなオケの魅力にまで育つかどうか。それは、これからの、指揮者のシゴキと根氣にも依るであらう。

 ジャン=フレデリック・ヌーブルジェは、フランスの若手ピアニストとの事で、私は始めて聽く。大植の演奏同樣、モーツァルトをばりばり彈きこなすといふ遣り方からは程遠い。プログラムによるとカーネギーのデビューで「音樂を解釋する天性の力が明らかに彼のセールスポイントだが、テクニックも竝外れたものがある(ニューヨークタイムズ)」と絶讚されたといふが、テクニックが竝外れてゐるといふのは、このモーツァルトでは判別し難い。トゥリルの納め方など、不器用だし、ピアノの音像もやゝ不安定な1樂章である。たゞ、何とも懷かしい、心の澄んだ歌聲のやうな高音を持つてゐる。これが響く度に、私は、その懷かしさを辿つて、彼の心をそつと覗きたくなる。無論、單にリリックで清潔といふだけなら、さうしたピアニストは澤山ゐるだらう。ヌーブルジェの場合、音そのものが情感の搖らぎを持つ本物の歌の氣配がする。私は、徐々に、この人の、やゝたどたどしいモーツァルトに引込まれて行つた。さう、たどたどしくて、そして優しい、有愁のモーツァルト。巧いといふより、センシティブで、心に直かに響くピアノである。

 その意味で、2樂章の、あの、モーツァルトだけの世界――心が曇天に閉ざされ、誰に告白する事もかなはぬ、孤獨な歎きの歌。かういふ、もう他者からのあらゆる慰めの手のとゞかぬ處で靜かに囁かれるやうな歎きは、ベートーヴェンには書けなかつた。ベートーヴェンの悲しみは、―最晩年を除き―いつも、壯大に樣式化され、作品の中では、既に解決されてしまつてゐる。解決された歎きを歌ふ、カタルシスの音樂である。この2樂章のやうな裸形の歎きといふものを20歳で歌ふモーツァルトといふ人の孤獨の深さは、何なのだらう。そして、それが何故、かうも自然に腸に滲み、心を優しくする力を持つてゐるのだらう。

 大植が天性の音樂家だと感じるのは、とりわけかうした樂章である。たゞ弦が、一刷毛さつと主題を歌ふだけで、もうその「音」が感情にうち振へてゐる。「音」が、であつて、「歌ひ囘し」が、ではない。このやうな曲で、歌ひ囘しで感情を籠めれば、演歌になる。彼の指揮は、振りも顏つきも、餘りに大袈裟な表情を伴ふから、見てゐるとド演歌派と勘違ひされかねないが、さうしたものではない。氏の演奏は、潔癖な美意識に貫かれて、常に、ある清潔を保つ。ヌーブルジェも素晴しい。どんなに歌ひ込んでも、感傷に澱まぬ響きの高さがある。音が宙に舞ひ、歎きは、やがて微笑と區別の付かぬ優しさに融けてゆきさうである。

 3樂章に這入ると、ヌーブルジェのピアノは益々本領を發揮し始める。快調なピアニズムに向かふのではなく、寧ろ、音樂に内向するといふ意味での、本領である。出だしの、沸騰する感じにさへ、手放しの明るさはない。リズムも音も、素晴しくデリケートで、しかし、神經質ではない。リズムで遊ぶ、その遊びの無心は、何と悲しいのだらう。駈出してみては、ふと、立ち止まる。一體、この音樂は何を思つて立ち止まるのか。それに、愉しいといふ事と愁ひとはそんなに違ふことなのだらうか。

 正直云つて、この曲で、私をこんな無心にまで連れていつてくれた演奏は、大家名人のレコードでも、かつてなかつた。モーツァルトは、ごく若い時と、老年になつてからしか彈けないと云つたのは、誰だつたであらうか。今日のヌーブルジェのモーツァルトの、邪心のない自由は、或いは、夢を見たくて見た、私の夢幻に過ぎなかつたのか。それとも、年齡の奇跡は實際に起り、壯年期に這入つてゆくヌーブルジェからは間もなく聽けなくなるであらう、少年の微笑の、本當の名殘であつたのだらうか。

 マーラーの《第5》は、實に、遲い、丁寧な音樂で、精神的勞作と呼びたくなるやうな種類の演奏であつた。この曲を、90分で、殆ど弛緩の跡もとゞめず、妥協せずに粘り拔いたのは、敢鬪賞ものだが、だからと云つて、感銘が強かつたとは云へない。スローテンポで、徹底的に曲と對峙するが、開放的なカタルシスがこない。さうしたものに、逃げまいとする辛口の演奏である。だが、カタルシスへの要求は、自然な要求であり、無理に封じ込める事はないだらう。
1樂章が、驚く程遲く始まり、これは肚を据ゑて聽かねばと覺悟した。出だしはともかく、普通、テンポをいぢつて、運動性をあげてゆく場面で、執拗に腰を上げようとしない。この葬送の徹底した昏さ、行く先のなさは、印象的で、私は、強い期待を持つた。遲さに見合つた、味の濃さがある。今まで、この1樂章で、テンポをいぢり劇性を作る演奏が、何か嘘臭いアジ演説に聞えてゐた理由が、ふと得心行つたやうな氣がしたのである。アンサンブルは、緊張感と輝きと厚みを加へてゐる。先日聽いたシカゴ響や、一昨年ハーディング指揮で同じくマーラーの《第5》をやつたロンドン響のやうな、いはゆるスーパーオーケストラではないが、大フィルの合奏力が、大植になつて、非常に向上したのは間違ひない。

 だが、2樂章になつて、依然として、テンポの遲い音樂が續くと、集中して聽き續けるのが、やゝ困難になり始める。こゝまで丹念に全てを抑へてゆくだけの音樂内容があるのか。時間を滿たすだけの音樂の發言力が、本當に、このまゝ最後まで維持され得るのだらうか。

 その疑問は、3樂章のスケルツォで決定的になる。この樂章も、運動性を殆ど拒絶するやうな演奏で、それにどのやうな根據があるか、マーラーに詳しくない私は一向に詳らかにしないが、牧歌とカタストローフとのアマルガムのやうなこの音樂は、もつとしなやかな動性を求めてゐると考へる方が自然だらう。この樂章に動きがあるからこそ、4樂章のアダージェットが、耽溺性の微光で聽き手を醉はせる。さうした對照が、今日の演奏では消えてしまつてゐる。
4樂章自體は、よく歌つてゐたが、私は既に相當くたびれてゐ、音樂に沒頭出來なかつた。この樂章の好きな人には、どう聽こえたのであらうか。大植の、伸びやかだが、感情の襞にとゞく歌に、充分陶醉できたのであらうか。それならば、捕へ損なつた私は、殘念な事をした譯である!

 さて、最大の問題は5樂章である。これだけ粘りに粘つて、音樂の内向する情念に賭けてきた以上、このロンド・フィナーレにはエネルギーの解放を期待したが、今までの樂章以上に、遲さの目立つ異例の演奏だつたからである。アレグロに這入つた時の愕然とするやうなテンポの遲さに、私は思はず嘆息した、あゝ、この人達は、最後まで、この流儀でやり拔くつもりなのか、畜生!

 無論、確信犯なのだから、あげつらつても仕方がない。大植の音も、今の大フィルのアンサンブルの能力からも、この樂章で、強烈なクライマックスを作るのは、寧ろ易しい事だつたらう。その道を取らないといふのが、あへて困難な道を行く試みである事は間違ひない。さうした覺悟の氣合は、この演奏に、凡百の「快演」を薙ぎ倒すだけの、音樂的主張の強さを與へてゐた、それを否定するつもりはない。

 だが、さうであるにせよ、この無窮動曲風の、きらびやかなフィナーレ=パロディを、こんな風に、腰を据ゑてやるのは、元の音樂の性格への重大な變更である。克明なフレージング、明晰で主張の強いフーガ、粘り強い孤を描いて何度もコラールへと雪崩込む音樂の構造――なるほどさうしたものを打出すには、或る種の重心の低さは必要かもしれない。だが、それに、こゝまで遲いテンポが必要だつたかどうか。運動性を犧牲にする場合、犧牲にするに足る別の價値がなければならないが、この曲は、明らかに、運動性そのものが主題だからである。

 技術的な觀點だけから見たとしても、この種の音樂で、運動性を犧牲にしてなほ、それが充分な表現に達するには、晩年のチェリビダッケのやうに、壓倒的なアンサンブルの質とダイナミクスレンジの振幅とで代償する他はない。彼らでさへ、どの曲でもうまくゆくとは限らなかつた。アンサンブル力が向上してゐるとは云へ、今の大フィルは、まだ、さうした超弩級の管弦樂團にまでは育つてゐない。敢鬪賞と書いた所以である。

 それにしても、あのコラールの場面の、大植=大フィルの、天國的に壯大で、夢のやうに輝かしい「音」! あれを、全曲にわたつて、もつと、存分に聽かせてほしかつた。今の、大植=大フィルの音は、本當に、素晴しい。掛値なしで、世界の指揮者&オケでも、私のととりわけ好きな「音」である。陰に籠つた處がなく、明るいのに、その明るさ自體が、單に樂天的な鳴りの良さではなく、表情に富んでゐる。もう少し自然なアプローチで、存分にこの「音」を生きてくれさへしたら、どんなに腹に應へる音樂になつてゐただらう。

 こんな音が易々と引出せる大植の力量は、國際的な水準でも稀な高さだと私は思ふ。これだけの指揮者が、バイロイトでうまくゆかなかつたのが、何故かは知らない。オペラでは力量も經驗も不足してゐたといふ事があつたのか、語學の問題か、仕事の方法論の違ひ、それとも人種の問題なのであらうか。だが、一つだけ云へる事は、この素晴しい「音」を失つて損をしたのは、バイロイトの側だといふ事である。だつて、考へてごらんなさい、聽くだけでこれだけ氣持が良くなる音――見てゐるだけで惚れ惚れする女優の美しい表情のやうに――を持つてゐる指揮者が、今、世界にどれだけゐるだらう? (この項了)

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